人生×リキュール ノチェロ
密閉型ヘッドセットの神聖な音空間に、引き抜いたジェンガを最上段に慎重に積んだ時のような微かな音が、そっと忍び込んできた。
同時に、空腹を誘導される匂い粒子が空気中に混ざり始めたのを鼻腔が感知。
ドラゴンやユニコーンが住む原生林が広がるパソコン画面と一体化していた意識が、薄暗い部屋へと急速に引き戻され、憂鬱な現実味を帯びていく。
彼はゆっくりと背後を振り返った。
ゴミが詰まったビニール袋で無造作に装飾された扉は、施錠されたまま沈黙を守っている。
扉の向こうからは、既になんの気配も感じられなかった。
オレ ーすんまそん(−_−;)エサ供給されたんでイチキタする
ノチェロ ーエサてwww(*゚▽゚*)おk
オレ ー15分あれば
ノチェロ ーゆっくり食べて。あたしもフロリダ(^ω^)ノシ
オレ ー( ̄^ ̄)ゞ
ヘッドホンを外した彼は、億劫そうに体を伸ばしてイスから立ち上がった。
体の動きに合わせて、腹周りについた贅肉が、だるそうに揺れる。
扉まではたった二、三歩の距離だ。距離と呼ぶにはあまりに短過ぎるので間隔と言ってもいいくらいのその移動が、最近、小学校の遠足で行った高尾山に登頂でもしているような滅入る気分にさせてくれる。
太ったのはもちろんある。それ以上に、外界を隔てる禁断の扉へと自らの足を向かせているような緊張感に陥るのだ。
けれど、空腹という欲に気付いてしまった彼はその扉を開けなければいけない。
一度実感してしまった空腹は、満たさない限り永遠に彼を脅かし続けるからだ。だが、扉を開けることは外界と触れることを意味する。彼を拒絶している外界の空気を感じることになる。更には、扉の外側に残留している視線。諦めと失望それに困惑。それから惻陰の情。腹立たしい。
彼は夕飯が乗ったお盆を取り上げると、素早く部屋に引き入れた。
その際、汁物がいささかこぼれてしまったが気にしない。彼は、肉じゃがとお浸しと白米を一緒くたに混ぜてガツガツかっ込む。まさにエサ。それを食らう豚のように肥えた自分。
彼が部屋に引き蘢ったのは、超有名国立大学の受験に失敗した春の終わりからだ。
最初は、夏の終わりまでのちょっとしたロングバケーション感覚だった。けれど、いつのまにかクーラーをつけていると肌寒く感じるようになり、毛布を引きずり出してまもなく年が明けたことを知り、それから花粉で鼻がやたらとムズムズする期間がさらっと二回通り過ぎた。
それでも彼は自分に言い訳をしながら、引き蘢り続けた。
いつまで? いつから? このままでいいの? そんな疑問を孕んだ言葉達が一つまた一つと彼の中からその存在を消していく。
そしてとうとう、子どもと大人の完璧な境界線である二十歳すら彼を素通りしていたという事実が発覚してしまう。
もう後戻りはできない。そんな覚悟とも恐怖ともつかない切迫感が彼に芽生えた。
食事を終えた彼は、空のペットボトルの山から飲み物を探す。
飲み切ってしまったらしく見つからなかった。仕方なくキーボードの横にあるモンスターを流し込むと、再びヘッドセットを装着してパソコンに向き合う。
ロールプレイングゲーム内での彼は、黒い長髪を後ろで粋に括った大剣使いのアタッカーで、いかにも女にモテそうな白い歯を見せた清涼感たっぷりの笑い方をする若い男性アバターだ。
引き締まったソフトマッチョな肉体に、日に焼けた健康的な肌色。おしゃれな首飾りと赤を基調にした色合いの衣装を着こなし、頬の傷が百戦練磨の強者を思わせる。
何ヶ月も洗っていない湿気った匂いがする黒っぽい色味の部屋着を着た、黄色い歯と吹き出物だらけの自分と共通しているのは、黒髪であるということと切れ長の目と立ち耳の形だけだった。
オレ ーイン( ̄^ ̄)
ノチェロ ーおか(*´ω`*)
オレ ーΣ(・□・;)レスはや
ノチェロ ーカラスの業水
オレ ー行きますか( ̄^ ̄)
ノチェロ ーよろ*\\\\(^o^)/*
ノチェロとは、このゲーム内で知り合った。
白を基調にしたヒーラーの愛くるしい装備を身に纏う女の子アバター同様、言葉使いを見る限りでは十代の女性プレイヤーではないかと彼は推測している。ネカマではないはず。
彼と同じように時間に囚われずにログインしているようなので、不登校の女子中学生か女子高校生とかではないだろうか。オレと似たような境遇なんかなぁと時々お互いに曝け出して傷を舐め合ってみたい衝動に駆られるが、そんなことをしたところで増々惨めになりそうな気がして止める。
彼には彼の褒められない事情があるように、彼女には彼女の複雑な事情がきっとあるのだろう。
それを見ず知らずのゲーム仲間になんて暴露したりなんて絶対しない。ゲーム仲間は非現実な世界での相手でいい。
リアルな事情なんて辛い要素は仮想世界には必要ない。だが、視覚と聴覚と脳は非現実な世界に行けても、味覚や臭覚を始めとしたその他の感覚は現実に停まらざる負えないのだ。
臭覚が機能したことによる空腹感の認識。
いくらゲームに熱中していても、空になったペットボトルが消えるわけでも再び液体を満たすでもないし、敵を倒しても報酬としてジュースやお茶がもらえるわけでもない。悲しいながら、喉の渇き一つ癒すことはできない。だから、ほんとうはどこかでわかっている。現実逃避をしても、所詮は逃避なのであって、いくら逃げて避けても結局はなにも癒すことはできはしないということを。わかっていてわからない振りをしているだけ。今更向き合うのが怖くて。
全ての視線が怖くて。痛くて。しんどくて。だから。
時刻を確認した彼は生唾を飲む。
深夜を過ぎたら、飲み物補充のためにコンビニに行かなければいけない。
親は、飲み物はわざと汁物しか添えないし、買い物の用を聞きには来ない。それをしたら最後、彼は部屋から出ることはなくなり、完全なる廃人になってしまうと危惧しているのだ。なので、なにか飲みたければ下に降りてくるか、自分で買いに行きなさいと、時々食事盆に乗っている小銭で無言の指示を出してくる。それは、彼からしてみれば生きるか死ぬかの選択だが、親としては正しい判断だと思う。なので、彼は時々深夜に徘徊する。
オレ ーこの狩場Mob多いな(ㆀ˘・з・˘)
ノチェロ ーMobに混じってPKいるみたい(´・ω・)
オレ ー( ̄(工) ̄)あいつ?
ノチェロ ーフランジェリコ
オレ ーGM通報されとらんのかいΣ(-᷅_-᷄๑)
ノチェロ ーよ(・ω・`)
オレ ーPvP容認?
ノチェロ ーチートにならないのかも(˘・з・˘)
オレ ーマジか晒せ( ̄Д ̄)ノ
ノチェロ ーPSヤバいしレベチの無敵人
オレ ー弱者は黙ってろか(c\\\" ತ,_ತ)
ノチェロ ーgkbu:;(∩´﹏`∩);:
この世界でも、強者が弱者を脅かして好き勝手に闊歩しているのだ。
同時に、空腹を誘導される匂い粒子が空気中に混ざり始めたのを鼻腔が感知。
ドラゴンやユニコーンが住む原生林が広がるパソコン画面と一体化していた意識が、薄暗い部屋へと急速に引き戻され、憂鬱な現実味を帯びていく。
彼はゆっくりと背後を振り返った。
ゴミが詰まったビニール袋で無造作に装飾された扉は、施錠されたまま沈黙を守っている。
扉の向こうからは、既になんの気配も感じられなかった。
オレ ーすんまそん(−_−;)エサ供給されたんでイチキタする
ノチェロ ーエサてwww(*゚▽゚*)おk
オレ ー15分あれば
ノチェロ ーゆっくり食べて。あたしもフロリダ(^ω^)ノシ
オレ ー( ̄^ ̄)ゞ
ヘッドホンを外した彼は、億劫そうに体を伸ばしてイスから立ち上がった。
体の動きに合わせて、腹周りについた贅肉が、だるそうに揺れる。
扉まではたった二、三歩の距離だ。距離と呼ぶにはあまりに短過ぎるので間隔と言ってもいいくらいのその移動が、最近、小学校の遠足で行った高尾山に登頂でもしているような滅入る気分にさせてくれる。
太ったのはもちろんある。それ以上に、外界を隔てる禁断の扉へと自らの足を向かせているような緊張感に陥るのだ。
けれど、空腹という欲に気付いてしまった彼はその扉を開けなければいけない。
一度実感してしまった空腹は、満たさない限り永遠に彼を脅かし続けるからだ。だが、扉を開けることは外界と触れることを意味する。彼を拒絶している外界の空気を感じることになる。更には、扉の外側に残留している視線。諦めと失望それに困惑。それから惻陰の情。腹立たしい。
彼は夕飯が乗ったお盆を取り上げると、素早く部屋に引き入れた。
その際、汁物がいささかこぼれてしまったが気にしない。彼は、肉じゃがとお浸しと白米を一緒くたに混ぜてガツガツかっ込む。まさにエサ。それを食らう豚のように肥えた自分。
彼が部屋に引き蘢ったのは、超有名国立大学の受験に失敗した春の終わりからだ。
最初は、夏の終わりまでのちょっとしたロングバケーション感覚だった。けれど、いつのまにかクーラーをつけていると肌寒く感じるようになり、毛布を引きずり出してまもなく年が明けたことを知り、それから花粉で鼻がやたらとムズムズする期間がさらっと二回通り過ぎた。
それでも彼は自分に言い訳をしながら、引き蘢り続けた。
いつまで? いつから? このままでいいの? そんな疑問を孕んだ言葉達が一つまた一つと彼の中からその存在を消していく。
そしてとうとう、子どもと大人の完璧な境界線である二十歳すら彼を素通りしていたという事実が発覚してしまう。
もう後戻りはできない。そんな覚悟とも恐怖ともつかない切迫感が彼に芽生えた。
食事を終えた彼は、空のペットボトルの山から飲み物を探す。
飲み切ってしまったらしく見つからなかった。仕方なくキーボードの横にあるモンスターを流し込むと、再びヘッドセットを装着してパソコンに向き合う。
ロールプレイングゲーム内での彼は、黒い長髪を後ろで粋に括った大剣使いのアタッカーで、いかにも女にモテそうな白い歯を見せた清涼感たっぷりの笑い方をする若い男性アバターだ。
引き締まったソフトマッチョな肉体に、日に焼けた健康的な肌色。おしゃれな首飾りと赤を基調にした色合いの衣装を着こなし、頬の傷が百戦練磨の強者を思わせる。
何ヶ月も洗っていない湿気った匂いがする黒っぽい色味の部屋着を着た、黄色い歯と吹き出物だらけの自分と共通しているのは、黒髪であるということと切れ長の目と立ち耳の形だけだった。
オレ ーイン( ̄^ ̄)
ノチェロ ーおか(*´ω`*)
オレ ーΣ(・□・;)レスはや
ノチェロ ーカラスの業水
オレ ー行きますか( ̄^ ̄)
ノチェロ ーよろ*\\\\(^o^)/*
ノチェロとは、このゲーム内で知り合った。
白を基調にしたヒーラーの愛くるしい装備を身に纏う女の子アバター同様、言葉使いを見る限りでは十代の女性プレイヤーではないかと彼は推測している。ネカマではないはず。
彼と同じように時間に囚われずにログインしているようなので、不登校の女子中学生か女子高校生とかではないだろうか。オレと似たような境遇なんかなぁと時々お互いに曝け出して傷を舐め合ってみたい衝動に駆られるが、そんなことをしたところで増々惨めになりそうな気がして止める。
彼には彼の褒められない事情があるように、彼女には彼女の複雑な事情がきっとあるのだろう。
それを見ず知らずのゲーム仲間になんて暴露したりなんて絶対しない。ゲーム仲間は非現実な世界での相手でいい。
リアルな事情なんて辛い要素は仮想世界には必要ない。だが、視覚と聴覚と脳は非現実な世界に行けても、味覚や臭覚を始めとしたその他の感覚は現実に停まらざる負えないのだ。
臭覚が機能したことによる空腹感の認識。
いくらゲームに熱中していても、空になったペットボトルが消えるわけでも再び液体を満たすでもないし、敵を倒しても報酬としてジュースやお茶がもらえるわけでもない。悲しいながら、喉の渇き一つ癒すことはできない。だから、ほんとうはどこかでわかっている。現実逃避をしても、所詮は逃避なのであって、いくら逃げて避けても結局はなにも癒すことはできはしないということを。わかっていてわからない振りをしているだけ。今更向き合うのが怖くて。
全ての視線が怖くて。痛くて。しんどくて。だから。
時刻を確認した彼は生唾を飲む。
深夜を過ぎたら、飲み物補充のためにコンビニに行かなければいけない。
親は、飲み物はわざと汁物しか添えないし、買い物の用を聞きには来ない。それをしたら最後、彼は部屋から出ることはなくなり、完全なる廃人になってしまうと危惧しているのだ。なので、なにか飲みたければ下に降りてくるか、自分で買いに行きなさいと、時々食事盆に乗っている小銭で無言の指示を出してくる。それは、彼からしてみれば生きるか死ぬかの選択だが、親としては正しい判断だと思う。なので、彼は時々深夜に徘徊する。
オレ ーこの狩場Mob多いな(ㆀ˘・з・˘)
ノチェロ ーMobに混じってPKいるみたい(´・ω・)
オレ ー( ̄(工) ̄)あいつ?
ノチェロ ーフランジェリコ
オレ ーGM通報されとらんのかいΣ(-᷅_-᷄๑)
ノチェロ ーよ(・ω・`)
オレ ーPvP容認?
ノチェロ ーチートにならないのかも(˘・з・˘)
オレ ーマジか晒せ( ̄Д ̄)ノ
ノチェロ ーPSヤバいしレベチの無敵人
オレ ー弱者は黙ってろか(c\\\" ತ,_ತ)
ノチェロ ーgkbu:;(∩´﹏`∩);:
この世界でも、強者が弱者を脅かして好き勝手に闊歩しているのだ。
作品名:人生×リキュール ノチェロ 作家名:ぬゑ