空墓所から
17.スイッチ
深夜2時過ぎのこと。
幸太は布団の中でふっと目を覚ます。部屋は数時間前と同じように真っ暗だ。
幸太は普通の会社員をしている。そこそこ大きめの会社の設備課に勤め、備品の調査や設計、施工などの業務を主として受け持つ多忙な日々を送っている。明日も午前中から取引先との打ち合わせの予定だ。そのため、普段は日付が変わるぐらいまで平気で起きているのを、今日は早めにと思い11時前に消灯したのだった。
部屋は数時間前に消灯したときと全く同じだった。闇。一寸先も見えない黒色が幸太と、布団と、そして申し訳程度に置かれた調度品の周囲にしっかりと根を張っている。恐らく扉をしっかりと締め、よろい戸もきちんと下ろしている故に、光が入り込む術がないのだろう。
そんな影だけの空間で目を覚ました幸太は、最初、思わず苦笑していた。そりゃそうだ。いつもより早く横になっているんだから、すんなりと寝付くことができないのも当然。こりゃ、明日の打ち合わせは眠い目をこすりながらになりそうだな。そんなことをぼんやりと考えていたとき、幸太は自分の肉体の違和に気付いた。
下腹部に不快感。痛みというほどきつくはないが、小さい頃から日夜経験している、今も1日に数回ほど起きるあの感覚。
(小便、いこ)
幸太はもう一度苦笑した。なんだ、別に早く床に就いたから眠れないんじゃなかったんだ。小用を足したくなったので目が冷めただけ、それだけだったんだ。これからトイレにいって、用を足して、再び横になればまた眠れるに違いない。それだけの話。仮にトイレで用を足したあと、眠れなかったとしても大勢に影響はない。どっちにしたって、さっき、打ち合わせは眠い中でやることになりそうだなと覚悟を決めたところなんだから。この後、眠れなくてもこちらは一向に構わないんだ。
幸太はそんなふうに考え方を楽にしながら、布団をはねのける。無論、この寝室を出てトイレへと行くためだ。はねのけた掛け布団を斜めに折り曲げて、帰ってきて潜り込みやすいようにしてから、膝を折り曲げて立ち上がる。そして光の見えない中、ドアのノブを一発で探り当てて扉を開いた。もうこのアパートの一室を5年以上にわたって借りている幸太にとって、この程度の芸当は朝飯前だった。
次の間であるリビングには窓から光が差し込んでおり、キッチンや冷蔵庫、テーブルの形がぼんやりと浮かび上がっていた。幸太は普段から見慣れているそれらには目もくれず、リビングの端に設置されている手洗いへと急いだ。ようやくそこへとたどり着いた幸太は、さすがにここでは電灯のスイッチをひねる。手洗い所内に明かりがついたことが、扉の上方に設置された明かり窓から察せられる。
幸太はすかさず扉を開けて中に入り、部屋着のズボンを下ろして用を足す。放物線を描いた液体が、真っ白な陶器の奥にたまっている水の中に流れ込んでいく。その勢いは徐々に衰えていき、やがて完全に止まった。幸太は残尿を処理し、レバーで持って汚水を流しつつ、同時に便器上方から流れてくる水で手を清め、リビングに戻ってスイッチを押し、トイレの明かりを消した。
「ふう……」
少しだけ光が差し込むリビングで、幸太は息をはく。用は足したわけだし、あとは再び布団に戻って横になればいいだけなのだが、どことなく落ち着かない。何か、トイレのついでにもうひとつばかり作業というか、行為がしたい。貧乏性というわけではないが、少なくとも今の幸太は薄闇の中でそんな心境になっていた。
そんな大したことじゃなくていい。むしろ面倒過ぎる作業はごめんだ。そんな思いでキョロキョロと周囲を見回していると、キッチンの片隅に置かれている四角い物体━━冷蔵庫が目に入った。
そうだ。ちょっと何かを口に入れればいい。食べ物じゃなくていい。確か、少し前に買った1.5リットルのお茶のペットボトルがまだ入っているはずだ。それを飲めば喉の乾きも潤おうし、何らかの行為がしたいという欲望もかなえることができる。
だが、もう深夜だし、先ほどトイレに行ったばかりだ。あまりガブガブと飲むのは控えたい。どうすればいいだろうか。考えた結果━━というより、ほとんど思考の余地などなかったが、一つの案にたどり着く。コップに少しだけ注いで飲めばいいんだ。そうすれば万事はうまく行くはずだ。
幸太は上記の考えを実行に移すために、まずリビングのスイッチをつけることにした。この暗さでは、コップにお茶を注ぐ際に不覚を取る可能性を懸念してのことだった。規則正しい位置に4つほど並んでいるスイッチたちに歩み寄り、一番右上のスイッチを作動させてリビングの明かりをつけようとした、その時だった。
不意に幸太は、そのスイッチに違和感を覚えた。何かがある、いつものようにこのスイッチを押してもリビングの電灯はつくことはない、という妄想にとらわれたのだ。このスイッチを作動させることで、何が起こるかまでは分からない。どこかの病院で見知らぬ純朴な患者さんの生命維持装置が外れるとか、怖い人に捕まって足をコンクリで固められた男をつるしているロープが切れて海へ真っ逆さまに落ちていくとか。絶海の孤島に建てられた洋館で身の毛もよだつような残酷な殺人が起こるとか、見知らぬ隔離された場所で無惨なデスゲームが始まるとか。どこかの国で大量の死者が出るような大きな事故が起こるとか、むせび泣きたくなるような悲しい戦争が国家間で勃発するとか。太陽系の惑星の配列が変化し、この青い星に深刻な影響を及ぼすほどの天変地異が起こるとか、はるかかなたの途方もない大きさの恒星が超新星爆発を起こし、この宇宙の終焉の引き金になるとか……。今、つらつらと挙げた想像よりも恐ろしい、とてつもなくろくでもないことが起きるという荒唐無稽な思考に、幸太の脳は一時期支配された。
恐怖でじとりと垂れてくる脂汗。いっそ逃げ出して布団に潜って寝てしまいたい。しかし、恐ろしさのあまり喉の乾きは次第に本格的になっていく。その中で、幸太は微光がさしこむ部屋の中で、リビングのスイッチを見つめながら、いつまでもいつまでも立ち尽くすしかなかった。