臨終まで
親族がベッドのまわりを取り囲んでいる。
新たに人が入ってくる。
互いに目で挨拶を交わし、一緒に病人をながめやる。
人々はそれぞれ別のことを考えている。
――いつまでかかるんじゃろう。夕飯の支度に帰りたい。
――途中で抜けたら、そしられるじゃろうか。
家の鍵をかけ忘れたかもしれない、腰痛の薬を持ってこなかった、腹が減った、喉が渇いた――深刻な顔の下にはそれぞれの事情と思惑がひしめいている。
十四歳の孫娘が老人の手を握りしめ、声をかけ続けている。
「おじいちゃん、頑張って。おじいちゃん」
呼びかけるたび老人は目を開き、声の主をさがして瞳を泳がせる。
「おや、聞こえたようじゃ」
誰かが頓狂な声を出す。
「先生は、もう意識がないと言うとったがのう」
「孫の声はわかるんじゃな」
老人が反応するたび、人々は「動いた」「まばたきをした」「うなずいた」と、口々に言い合う。老人の枕元に集まったいくつもの顔は、まるで未知の生物を観察するような視線を注いでいる。
看護師が痰を抜きにくる。
「血圧を測りますから、お嬢さんは離れてください」
「このままじゃダメなの?」
孫娘は哀願するように看護師を見上げる。その目に涙がにじんでいる。
看護師は無表情で首を振る。
老人の細い枯れ枝のような指が指が一本ずつ開かれていく。
その手は力なくベッドのわきに垂れる。
部屋の外で、パンを買ってきたという声がする。
厳粛な空気を破壊するような、明るく賑々しいハーメルンの笛である。
人々は立ち上がり、わらわらと部屋を出る。
待合の椅子に腰掛け、カレーパンや焼きそばパンにかじりつく。
「友引は、いつじゃったろう」
誰かがつぶやく。
別の誰かが手帳を開く。
「明日じゃ。三日葬連にならねばよいが」
「礼服はあったろうか。しばらく着とらんけどサイズは合うじゃろうか」
「ワイシャツにアイロンをかけとかなあかん」
誰もが「次」の段取りに思いをはせている。
「おじいちゃん!」
病室から孫娘の声がひびく。
人々はあわてて駆け込む。
「頑張って、頑張って!」
孫娘は悲鳴のように叫び続ける。
老人はふり絞るように呼吸している。
鼻マスクの曇りが一瞬消えて、あえぎが止まる。
孫娘が悲鳴を上げる。
医師と看護師が来て、心臓マッサージをはじめる。
点滴装置のランプが警告音を鳴らす。
看護師が流滴調整をする。
数分も経たないうちに、また鳴る。
身体が点滴を受け付けなくなっている。
血液が循環しなくなり、行き場を失った輸液は、やがて毛穴からにじみ出す。
血圧が急速に低下する。
それは落下するエレベーターの階表示にも似ている。
数値がゼロを示す。
医師が入ってくる。
「詰所の心電図も、今、止まりました」
脈をとり、瞳孔を照らし、腕時計に目をやる。
「ご臨終です」
去っていく医師と看護師に、人々は神妙に頭を垂れる。
そして、そそくさと部屋を出る。
皆、頭の中に用事を抱えている。
それまで泣いていた孫娘が、あわてて人々に呼びかける。
「誰か、誰か、この指を離してよぉ!」
そして病室に誰もいなくなる。
マスクを外された老人は、口を開いたままじっと横たわっている。
(了)