時間の問題
日曜日の夕暮れ、客もまばらなカフェの隅で、雑誌をめくっていたときである。杏子は何げなく顔を上げて隣の席を見た。通路を挟んで隣の席に男が腰かけ、向かい側に女が座った。女の顔は、ガードの仕切りに隠れて見えない。
男の横顔を見たとき、杏子はうろたえて目を伏せた。
――あのひとだ。
*
毎朝、同じ駅から電車に乗る四十半ばの男。いつも決まった時間にホームへの階段を登ってくる。コツコツと小気味よい靴音、長身で均整の取れた身体にしっくりと馴染むスーツ。ネクタイは地味でもなく派手でもなく、センスの良さが目を引く。黒光りのするビジネスバッグはいつも手垢ひとつついておらず、朝の光にキラキラと輝いている。顔を上げ、颯爽と歩く姿は小さな駅のホームでひときわ目立った。
電車を待つときの立ち位置はおのずと決まっていて、杏子は3両目、男は1両目に乗る。だから男はいつも杏子の目前を通り過ぎていく。背の高い、姿勢の良い姿が朝日に影を落として過ぎていくとき、杏子は反射的に目を伏せる。目を合わせたら、何かが生まれそうで怖かった。
杏子が知っているのはオーデコロンの香りと、通り過ぎざまに垣間見る怜悧な横顔だけだった。正面からその顔を見たことはなく、通り過ぎてから顔を上げ、男の背中を追う。毎朝同じ時刻に、同じ電車に乗り合わせる男と女。知ってはいるが、知らない関係。それが何ヶ月も続いている。
いつの頃からか男の横顔が杏子に語りかけるようになった。杏子はそれを確信に近い形で感じていた。コンマ1秒にも満たない朝の会話が生まれた。
――おはよう。
――おはよう。
――髪を切ったんだね。
――今日のスーツ、渋いわね。
コロンの残り香、骨太で長い指、手入れされたうなじ。男の全貌はまだ見えないが、声のない会話は毎朝の日課になった。
*
隣の席で、男は煙草をふかしている。連れの女はメニューを眺めている。杏子は雑誌を見つめている。杏子と男は仕切り越しに声なく語り合う。
――また会ったね。
――ええ、偶然ね。
――何をしてるの?
――べつに。ご一緒の方は、奥様?
――さあね。
女が何か言い、男が小さく答えた。それから沈黙が続き、女がまた言った。
「どこ見てるのよ」
苛立った声だ。男は答えない。
杏子は席を立った。
――帰るの? またね。
――ええ、明日ね。
*
朝。
杏子はホームに立っている。コツコツと靴音が聞こえてくる。男はすっと背を伸ばし前を向いて歩いてくる。杏子はうつむいて線路を見つめる。同じ朝、同じ時刻、同じ場所。
だが今日は違った。通り過ぎざま男の唇が動いた。
「おはよう」
杏子は顔を上げた。男と目が合った。
(了)