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ことばひとつ

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 あいのことばをひとつ。ついてみたかったのだ。
 なぜならわたしは彼のことがとてもとてもすきだったので。
「××して―――ます」
 あまりにも声が小さくて、そのことばは息と店内にかかる穏やかなジャズピアノにつぶれてしまって、ついたわたしですら鼓膜は音をひろわなかったのに、目の前の彼はその言葉を知っていたようだった。しかし、彼は、黒の目を見開こうとすることもせず、さりとて知っていたというふうでもなく、「―――はあそうですか」そういっただけだった。
 場末の静かなカフェは、他の客の声すら聞こえないほどに静かだ。音はやたら穏やかなクラシックか、ジャズのそれだけ。たまにささやきあうような声ばかり。音というものは、この空間にほとんど存在しないといっていい。鼓膜に触れるのがそんな、あたりさわりのない、わずかに鼓膜にかすめる程度にしか音がないからなのか、彼の言葉はやたらめったら大きく聞こえ、わたしはそればかりに驚き、彼のその反応についてはさして気にも留めなかった。
 それに、彼はまさにうつせみのようなひとだったから。浮世をただよって、けしてひとところにとどまることをしない(彼はとまることをしっているだろうか、いや、知っているだろう、けれど、とどまるということのかなしさも、くるしさもきっとよく知っている。だからこそ、なのだろう)。なかみがからっぽな、そんなひとだから。
「恋をしたことがありましたか」
 だからふと、聞いてみたくなった。もともとなかみがからっぽなうつせみなんてないだろう。うつせみは、中身があったからこそに生まれ落ちるものなのだから。あなた、恋をしたことがあるんですか―――もう一度聞いてみた、彼は、ただ黒の双眸を、わたしにかたむけ、
「ええ」
 と一言つぶやいたのちに珈琲をすすった。
「したこと、ありますよ」
 ふせられたまつげは、長くて、けれど、珈琲のけむりにそれはしろくくもって、わたしはそのうつくしいものをいつまでも見ることができなかった。
「なんにんのひとを恋しいと思ったでしょうかね」
 けれどその顔に、ひとつでも懐旧のなにがしかがうかぶことはない。彼は、やっぱり、うまれたときから、うつせみ? いやいや、違う。
「なんにんものひとに恋をしましたよ」
作品名:ことばひとつ 作家名:藤沢藤秋