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牡丹雪

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十年と少し前、白瀬家で妙なことがあった。
 重たい牡丹雪の夜だった。四歳になった長男坊の誉文が高熱を出したので、奥座敷に寝かせて両親が交代で看病していた。
 嫌がっていた粉薬も誉文はどうにか飲み込み、やがて穏やかな表情で眠り始めたから母親の瑠美はやっと緊張を解いた。日付も跨いでおり、彼女は目を開けているのが次第につらくなってくる。掛け時計の刻む音と誉文のスーゥスーゥという寝息を耳にしているうちに、瑠美の意識は薄らいだ。
 次にはっとしたとき、布団から誉文がいなくなっていたので瑠美の両眼はたちどころに冴えた。喉が渇いたのだろうか、と思い、彼女はまず台所に向かったが、息子の姿はない。別室で下の娘を寝かしつけていた夫に尋ねても「わからない」と言う。
 これは不可解な出来事だった。静まり返った夜の屋内であれば忍び足にだって気がつきそうなものだし、幼い誉文は夜中に手洗いに行くことも怖がるような子供だったからだ。
「洗面所はなんとだべ」
瑠美の夫・隆は常からのんびり屋で、この時点ではさほど深刻な顔を見せなかった。
「さっき見に行ったども……」
その後、どこにいるともわからない息子に向かって、両親はしきりに呼びかけ続けた。
「タカーぁ」
「タカ、どごさ行ったのーォ」
矢庭に階下がざわめき始め、二階で眠っていた誉文の祖父・徳次郎も事態を把握する。靴は玄関に揃えたままだったので三人がかりで家じゅうを探し回ったが、しばらく経っても誉文の気配すら掴めずじまいだった。
 瑠美はいよいよ青ざめ、声を震わせつつ警察に電話をかけた。徳次郎は眉間に深い皺をつくり、仏壇に手を合わせる。雪の夜の白瀬家に尋常ならざる空気が漂っていた。
 ところで彼らの暮らす片田舎の漁村、F町字霜ヶ瀬には「カクレ」の民話が存在する。幼い子供が夕方まで家に帰らないと「カクレ」が現れて連れ去ってしまうが、数日後にはひょっこり戻ってくる。ただし、子供にその間の記憶はない……という具合のものである。もっとも今回の場合誉文はずっと家にいたわけで、しかも夕方をとうに過ぎた時刻に起きた事案だから、白瀬家の面々にその発想は浮かばなかった。

 冬の空も白んでくる頃、裏手の離れ座敷から「オーウイ、いたぞォ」と駐在の大きな声が聞こえてきた。両親と徳次郎が一目散に駆けつけると、キョトンとした顔の誉文が棒立ちでそこにいた。
「タカっ……」
感極まったふうに抱き寄せる瑠美とは対照的に、誉文はいまいちピンと来ない表情で突っ立っている。
「おいタカ、なした、その茶碗は」
隆は訝しげに指さす。狭い座敷には欅で作られた小さな座卓があり、そこに米粒の残った陶の椀が載せられている。
「おかゆ、ばあちゃん食べさせてくれた」
幼い誉文の言葉に、居合わせた一同は目を丸くした。
 徳次郎の妻であり誉文の祖母にあたる白瀬蓉子は、夭逝の才媛だった。
 当時の女性としては珍しく四年制の大学を出ており、「これからは英語の時代だ」という高等学校の担任の勧めから英文科に学んでいた。理知的であり、芯が強く温かい人柄の持ち主だったが、一人息子の隆が中学校に上がる頃、病に倒れて帰らぬ人となった。三十代中頃に撮影したという凛々しい顔つきの遺影が、白瀬家の仏間には飾られている。
 その蓉子が座敷に現れ、白粥でもてなしてくれたのだ、と誉文は言うのである。
 にわかには飲み込み難い話だが、四歳の誉文が一人で炊飯をするなど、馬鹿げた考えだった。
「……んだか。ばあちゃん、何か言ったったか?」
最初に誉文の話を受け止めたのは徳次郎だった。目線を孫と合わせるように中腰になり、優しい声でそう尋ねる。
「なも喋らなかった」
誉文はやはりポカンとしたまま答えた。

 以後、誉文はちょっとばかり変わった子に育った。
 もともと口の重い、もっぱら室内で読書することを好むような寡黙をきわめた少年だったが、折に触れて妙なことを口走るのである。
「あした、コウとキヨちゃんがケンカする」
「きょうは傘持ってく。夕立があるから」
「母さん、もう少し待てばおじさん来ると思う」
……云々、と予言めいたことをぽつりと呟き、毎度その通りになるから家族は仰天した。こんなことが何度も続いたので、「こィだば神懸りだ。この子には何かが宿っている」と両親は考えた。しかしすぐに機転を利かせ、「もしも予知的に何が起こるかを理解しても、外では絶対に言ってはいけない」と誉文を諭した。小さい町だからたちまち噂になってしまうし、碌でもない知恵を働かせる連中も出てくるだろうという懸念があったのである。
誉文は「ウン」と素直に従った。成長するにつれ、少年は亡き祖母の凛とした顔立ちにドンドン近づいていったという。
作品名:牡丹雪 作家名:青野