奥に潜むもの
喉がカラカラに乾いていく。手がじっとりと汗ばんでいく。だが、それは縁側に座った自分たちに降り注ぐ焼けるような夏の日差しのせいではない。うるさいほどに聞こえていた蝉時雨も潮騒も、どこか遠くのもののように感じた。
「それは、どういう意味?」
「そのままの意味だ。あんたと恋人になりたい」
隣に座る彼へ顔をむけ、そうしてすぐに後悔して目を背けた。こちらが飲み込まれてしまうのではないか、食われてしまうのではないかと思うような、強く、熱に浮かされている獣の瞳。あんなものに見つめ続けられたら、ただでは済まない。
「なあ……だめか?」
甘えるような声に心臓が跳ねる。彼とは幼い頃からのつきあいだが、こんな声は今まで一度も聞いたことがなかった。いや、今まで親友という立場であったのだから、聞いたことがないのは当たり前かもしれない。
そばに置いてあったグラスを手に取り、中身をひとくち飲む。甘い炭酸がはじけながら喉を潤し、火照った体の中に冷たく染み込む。混乱していた思考が落ちついたところで、今度は隣の彼をきっと見据えた。
彼の問いに対する答えは決まっていた。決まっていたが、それを素直に答えるのはこちらが彼に出し抜かれたようで悔しいからやめた。
そちらがその気なら、こちらは籠城作戦に出よう。崩せるものなら崩してみろ。そう思えば、彼の視線も怖くなかった。
サイダーで少し湿った唇を軽く吊り上げる。
「……理由を聞いても?」
「理由?」
「そうだ。お前が俺を好きな理由。俺がそれに納得したら、恋人になってやるよ」
「本当か?」
「ああ。嘘はつかないよ」
「そうか!」
瞳を輝かせたかと思うと、彼はすぐに難しい顔で考えごとを始めた。納得させるものとなるとすぐには思いつかないようだ。眉根を寄せ、一点を見つめてうなっている。その間にこちらは守りを固めておけば、そう簡単に落とされることはないだろう。
せいぜい悩めば良いさ。
グラスに口をつけながらそっとほくそ笑む。しばらくして、さんざん悩んだ末によし、と呟いてこちらに向き直った彼は、一世一代の大仕事といわんばかりの硬い表情をしていた。
「綺麗だ」
「却下」
「声が好きだ」
「却下」
「手が美しい」
「手フェチなのかな? 却下」
「ひねくれているところも愛しい」
「褒めるどころかけなしているよね。却下」
「手厳しいところもいい」
「なるほどお前はマゾヒストだったのか。却下」
「……却下ばかりだな」
「納得してないからね」
彼がこちらを軽くにらんでくるが、そんなものでこちらの城は崩されない。
にっこりと笑ってやると、彼は盛大なため息をついてこちらに頭をあずけてきた。そのままぐりぐりと額を方にこすりつけられる。くしゃくしゃと短い髪がシャツの布地にこすれて乱されていく。
「ちょっと、何? くすぐったいんだけど」
「……わからない」
「うん?」
「生まれたときからずっと一緒で、気づいたら好きだったんだ。……理由なんて」
でもそれではあんたと恋人になれないんだよな、と呟いて、彼の頭が離れる。落ち込んだように目を伏せた表情が叱られた子犬のようだ。うっかり許してしまいそうなほど可愛らしいが、まだ降参するには早い。理性とは別に感情は可愛いと喚きたてるが、グラスをあおげばそれはすっかり落ち着いた。
さて、次はどう出る? 落ちこんでいても大人しく諦めるような性格でないことは知っている。
「そう。なら、これで終わりかな? お前は俺を落とせなかったわけだ」
少しあおってやると、彼はがばりと勢いよく顔を上げた。焦った顔。置いていかれそうになった幼子のように彼は頭を振った。
「まだ終わっていない! 終わらせない!」
「……そうこなくっちゃ」
それで? 次の理由は? とうながすと、彼は少し視線をさまよわせたあと、決意したようにこちらを見据えた。ガラス玉のように美しい瞳。ほのかに上気した頬。形のいい薄い唇。幼い頃から飽きるほど見てきたその顔は、強い日差しに照らされて輪郭が淡く光って見えた。
「あんたが好きだ。あんたの全てが愛しい」
彼の手が伸びてこちらの肩に触れる。その場所からじわじわと熱が広がるようで、思考がとろかされそうになる。
だめだ。流される。
慌ててグラスをあおぐ。が、唇には冷やりとしたものがあたっただけだった。驚きつつも唇からグラスを離すと、カラン、と涼しげな音を響かせて、溶けかけの氷が透明なガラスの内側に積もるのが見えた。
そのグラスも彼に奪われ、今度は手も握りこまれる。グラスの冷たさが互いの掌の温度に混じりとけていく。
「あんたの髪も、瞳も、声も、言葉も、考えかたも、全てだ。あんたの頭のてっぺんから爪の先、その先のあんたが触れるもの、聞くもの、見るもの、全てが俺にとって幸いだ」
恍惚とした彼の声に、ああ、そうか、とひとり納得する。さきほどまでの彼の言葉はただの氷山の一角にすぎなかった。
喉に渇きを覚える。しかし、サイダーはもうない。それどころか飲み干して氷の残ったグラスさえ手元にはない。あるのは熱と、
「俺が意味なく思えるものでさえ、あんたがいれば意味ができる。……あんたが見ている世界を、俺も、ずっとそばで一緒に見たい」
恐ろしいほどにまっすぐな光を宿した、一対の琥珀。じりじりと肌をこがす日差しによく似ていた。何も言えずうつむけば、のぞきこんできた彼と目が合った。
「ずっと一緒にいさせてほしい。そうできる関係が俺はほしい」
「……親友じゃ、だめなのか」
やっと絞り出した抵抗はか細く震え、ほどんどが喉の奥に消えた。鼻先が触れてしまいそうなほどの至近距離で、彼が頭を振る。せっけんにまざった彼の匂いに頭がクラクラした。
「親友じゃ、俺は誰かにあんたをとられてしまう。そうなってしまえばずっと一緒にはいられない。……俺は多分みんなが思うより欲深いから、親友の立場じゃきっと満足できない」
「……そう……か……」
頬が熱い。日差しの暑さのせいだと思いたいが、もはやそれだけでは言い訳にならないことは分かっていた。
心臓が暴れているような感覚に息が詰まる。耐えられず顔をそらそうとしたところで、許さないとばかりに肩に触れていた彼の手が頬にそえられた。そのまま目尻に流れてきた汗を親指で拭われる。
もう駄目だった。
立てこもった城が無残に崩れ落ちていく。残された瓦礫だけではとうてい身を隠すことなどできない。
いい加減腹をくくらなければいけない。することはもう決まっている。
彼の手を握り返し、ひとつ深呼吸をした。