ウラバンナ(白秋紀)
彼は柊が結婚して新しい道を歩き始めたのを見て安心したものの、その後二人が同じように結婚生活で躓くのを見て手紙を渡さなかったことを後悔したという。
彼は死を目前にして身辺の整理をしたものの、ふと手紙の処置に困ったのだと思った。彼が黙って手紙を焼却してしまえば、四十年近く前のことなので闇のなかに葬り去ることもできたはずである……。
「葬儀の後に藤城さんから仲立ちの話を聞いて唖然としました。池澤さんが死の直前まで私たちのことを案じておられたのかと思うと申しわけなくて……」
彼が電話で私の老後を心配していたのも、全ては柊との仲立ちに繋がっていた。
「今年の正月明けの電話で、会わせたい人がいるから盆には帰って来いと、しつこく催促されました……。池澤はその頃から盆まで生きられないことを悟っていたのだと思います……」
だからこそ、彼は死の直前に藤城喜子にこの仲立ちを託していたのであろう。
柊は手紙の経緯を説明し終えると、今度は冬のことに言及してきた。
「実家に戻ってからは私と冬は池澤さんに随分お世話になりました……。池澤さんは冬があなたの子供であることに気付いておられたのだと思います……」
柊の言葉の中に、重大な事実の告知があったのを聞き逃さなかった。やはり冬は私が血を分けた子どもなのだろうか……。
「冬と実家に戻った時に、『あいつの小さい頃によく似ている』……、池澤さんからそう言われたことがあります……」
池澤捷一は片親の冬を自分の子どものように可愛がっていた。柊はそれをみて、池澤捷一には何かも見抜かれていると思ったという。
「えっ! つまり、冬さんは私の…………」
私は予期していたとはいえ次の言葉が出てこなかった。
冬の出自
「あの大雪の夜、一夜の可能性に望みをかけていたのです……。許されないことですが……。それは私が再出発するための希望だったのです……。だから新しい命が宿っていることが分かった時は、やはり運命だと思いました……」
柊は渡辺夫人に全てを打ち明けて、シングルマザーとして育てる決心をしたという。
「……その時に、何故私に連絡してくれなかったのですか?」
柊の子どものことをカンテラの女将から聞いた時から、ずっと疑問に思ってきたことである。
「あなたに無断で妊娠しましたので……。将来のあるあなたに私が重荷になってはいけないと思ったのです……。だから冬との人生にあなたは最初から存在しない前提で生きてきたのです」
二十七年前のホテルに残されたメモを読み返せば、そう読みとることもできたが、私は“重荷”という言葉にこだわっていた。
「柊さん、もう逃げないでください。池澤にしても柊さんの出自のことを知っていたからこそ私に手紙を渡せなかったのではないでしょうか……。柊さんが今言った“重荷”もそのことだと思いますが違いますか?」
池澤家こそ、地元の旧家として部落の因習の中心にいたはずであり、池澤捷一も部落出身者への差別の実態を知っていたはずである。
私をその渦中に巻き込むことを懸念して、柊の手紙をずっと手元に置いていたのだと思った。
「私は高校の時に柊さんの出自のことは噂で知っていたし……、そんなことは少しも気にしていなかった。“柊さんの全てを一生大事にする”と告白したのも出自のことを示唆していたのです……。父は渡辺夫人の大ファンだったし、母だって柊さんを随分気に入っていました……」
柊のヘーゼルの瞳からは大粒の涙がポロポロと零れていた。
「あなたから音沙汰がなかったので、私の出自のことだと思って諦めたのです……。私の傷が癒えるまで吉川にシェルターになるように姉が頼んでいたようです。私は何も知りませんでしたが……、だから冬を授かったと分かった時もあなたに知らせなかったのです……」
田舎の因習の中ではシングルマザーの上に出自のこともあり、柊は苦労が多かったはずである。
田舎は隣近所との付き合いが密接なだけに、都会とは違って家庭内の事情が駄々洩れして不都合なことも起きていた。
「シングルマザーはわたしが選んだ道ですから……。でも冬には半分私の血が混じっているので出自の重荷から解放させたかったのです。就職や結婚もそうですが、池澤さんにはそういうことも含めて随分支えていただきました……」
池澤捷一は秋津柊とその娘を地域の因習から陰に陽に守ってくれていたのである。それだけなく、旧家の池澤捷一の次男と柊の娘である冬との縁組を遺言にして古い因習の壁を打ち破ろうとしていた。
「池澤はそういうことを一言も話してくれなかったので……」
私だけが冬の成長過程において蚊帳の外におり、池澤捷一は私の代わりに柊と冬を護ってくれていた。
「あなたが傍に居なくても、冬があなたの化身となって勇気づけてくれました……。だから、寂しいと思ったことはありません。池澤さんの言われるように冬は顔立ちも性格もあなたによく似ています。あなたの子供だけあって利発な子で助かりました……」
冬が唐突に血液型を訊いたことも、数学好きの私に親近感を寄せてきたのも、父親であることを密かに確認するためであった……。
「冬は池澤さんのお陰で中央病院の歯科医として働いていますが、お陰で私は盆前に母親卒業を宣言したばかりです」
柊は生まれながらにして経済的に恵まれた環境で育っており、あの美貌の皮膚の下にこれほどまでに強かさが潜んでいたとは思いもよらなかった。
「藤城先輩が、柊さんに言い寄った人が何人もいたと言っていましたが、現在付き合っている人がおられるのですか……」
彼女ほどの女を周囲の男たちが放っておくはずがないと危惧していた。
「そんなゲスいなことを言う人には冬先生に会わせてあげないわよ……。私が待っていた人は一人だけ……、それとも、そういう男性がいた方がよかったの?」
柊は私を睨むようにして皮肉を言った。それは器量の狭い男の杞憂に過ぎなかった……。
「あまり苛めないでください……。渡辺夫人はお元気ですか……」
私は渡辺夫人に憧れたが、そのお陰で柊との縁ができて、盆の間も二人の後援者として支えてくれていた。
カトレヤと崇められた柊もさすがに老化という摂理から逃れることはできなかった。二十代は冬のように生来の美貌が華やかに輝いていたが、五十路の現在は苦難を乗り越えてきた数だけ目尻の皺が増えていた。
「姉は昔からあなたをお気に入りで、冬を見て“孝ちゃんに目がそっくり”そう言って可愛がってくれました……。あなたもお気に入りの渡辺夫人に会いたいのでしょうね。今晩は泊まりに来ていますよ」
柊はこの後、矢納と秋津の家に挨拶に行くことを提案してきたが、私は冬も連れて行くように言った。
白薔薇の花言葉
「先ほど藤城先輩から教えてもらったのですが、白薔薇の花言葉は、“深い尊敬”と“あなたにふさわしい”という意味があるそうですね……」
柊への想いも渡辺夫人や池澤捷一の仲立ちがなければ初恋の想い出だけで終わっていた。彼の友情心が柊との縁を紡いでくれたが、その霊魂が白薔薇に乗り移っているような気がした。
「そう言えば、白薔薇一本の花言葉は“一目惚れ”と聴いたことがあるわ……」
作品名:ウラバンナ(白秋紀) 作家名:田中よしみ