夢女
分厚い眼鏡をかけた教授が、教壇の前で堂々と宣言する。広い講義室の中で彼の言葉に耳を傾けている学生はわずかしかおらず、大半はそっぽを向いたり、すやすやと眠っていたりする。刈谷という男もその一人で、彼は黒板の上に掲げられた時計を見ながら、大仰にあくびをした。
退屈だ。とても退屈だ。この老人は繰り返し同じことばかり捲し立てる。そして、夢は願望を満たすためのものであろうが、夢において蛇はペニス、穴はヴァギナを示していようが、俺の実生活にはまったく関係ないのだ。刈谷はそんなことを考えながら、再びあくびをした。
隣に座っている学生が熱心にメモを取っている。彼は佐々木という男である。刈谷から見て、佐々木はかなり奇妙な男だった。どの講義にも真面目に出席し、この退屈極まりない(そして非常に胡散臭い)「睡眠学」においても一睡もせずに真剣に黒板を見つめている。彼の脳みそは俺とは違う働きをしているようだ、と刈谷は思った。教授が眼鏡を外した。講義が終わった合図だ。刈谷はそそくさと部屋を後にした。佐々木は残って、教授に質問をするようだった。
駅前の雑踏は、まるで大編成のオーケストラのようだった。すべての動きがばらばらのように見えて、実はある程度統率されている。青信号で進み、赤信号で止まり、青信号で進む。
刈谷は雑踏を見るともなく眺めながら、先日の教授の言葉を思い出していた。夢は願望の表れなのです。まったく、あの講義も俺の役に立ったわけだ。彼は黒い帽子を外して、頭を掻いた。
今朝のことだった。彼は飛び起きた。それは寝坊したためでも、悪夢を見たためでもなかった。彼は寝巻で洗面所の鏡の前に立ち、呟いた。
「やれやれ、とんだ夢を見たものだ。」
彼はその朝のことを思い出しながら、雑踏を眺め続けた。そこには様々な音が溢れていた。鳥の鳴き声、多くの足音、会話する声、車が止まる音。時折、クラクションが鳴り響いた。それは道行く人を驚かせるが、彼らは大して気にすることなく通り過ぎて行ってしまう。
刈谷はベンチに腰かけていた。木でできた硬くも柔らかくもないベンチ。彼はそこに座る前に手で埃をはらう仕草をした。隣のベンチに横たわっていたホームレスの男が、ぎろりとした目でそれを見届けた。刈谷は咳払いをして、ベンチに腰を下ろした。
これはかなり骨の折れる作業だ、と彼は思った。彼は道行く一人一人の顔を念入りに点検しているのだ。男の顔は見ない。女の顔をよく観察する。彼はそのためだけに、大事な講義を休んで(今日の講義は、出席しないと単位がもらえなかった)こうして駅前にいたのだ。
細長い顔をした女が通り過ぎていく。彼女は狐のような目をしていた。細い唇はどことなく薄幸そうだった。次に、いくぶん太った女が通りかかった。やたら高そうなハンドバッグを持ち、いくつもの宝石を身に着けている。刈谷は顔をしかめた。下品な女だ。
黒い髪を鎖骨あたりまで伸ばしている女が通りかかった時、探している女が彼女だったら良かったのに、と彼は思った。肩が華奢で、石鹸の匂いがした。彼はしばらく余韻に浸っていたが、それも長くは続かなかった。次の女がやってきたのだ。
空が茜色に染まっても、探している女は現れなかった。彼は力なく立ち上がった。ホームレスは未だにベンチで横たわっていた。目は閉じられていた。もしかしたら、死んでいるかもしれない。しかし、刈谷はもはや彼を揺り起こす気力を持ち合わせていなかった。彼は重い足取りで家路を歩み始めた。
彼は駅から十数分のところに安いアパートを借りていた。部屋まであと数十メートルというところで、佐々木の姿が目に入った。佐々木は手をあげて、刈谷に挨拶した。彼は返事をしなかった。代わりに目を見開いて、その場に立ち止まった。
「刈谷、今日の講義を休んだだろう。体調でも悪かったのか。」
佐々木が彼の体調を心配しても、彼は何も言わない。彼はただそこに立ちすくんでいて、すべての活動を停止しているかのようだった。大方、休んだことを恥じているのだろう、と踏んだ佐々木は、彼の肩を叩いた。彼を安心させようという佐々木なりの思いやりだったのだ。
突然、刈谷が佐々木の手首をつかんだ。佐々木が抵抗しても、彼は決して離さない。しばらくして、彼は叫んだ。
「俺の夢を返せ。」
佐々木はあっけにとられて、その意味を問いただそうとした。
「どういうことだよ。」
「あのな、俺は女に顔を踏まれるという夢を見たんだ。」
「だからと言って、人につかみかかるのはどうなんだ。」
「いいか、よく聞け。」
ことの顛末は以下の通りだった。彼は女に顔を踏みつけられる夢を見た。屈辱的だったが、彼は同時に快感を覚えてしまった、自分の内なる欲望に気がついた刈谷は、その女を見つけ出そうとした。しかし、女の顔がどうしても思い出せない。そこで駅前で道行く女たちを眺めていればいつか思い出せるのではないかと、考えたのだ。
「それで、その夢に俺は関係あるのか。」
「お前に会って思い出したんだよ。その女の顔はな、」
彼は佐々木の顔をまじまじと見つめた。そして、大きな溜息をついた。
「お前だったんだよ。」