妻の味
頭上の蛍光灯がちかちかと鳴った。それはまるで点滅する青信号のようだ。私は急いで鍋に具材を入れた。
一人きりの台所は、少し肌寒い。冬は確実に近づいてきている。やがて鍋から穏やかな湯気が上がり始めて、私は息をついた。
妻が亡くなったのは、一か月前だった。仕事から帰ると、彼女は台所の床で冷たくなっていた。心臓発作だった。小窓から差し込む月の光や床に転がった菜箸が、冷ややかな目で私のことを見ていた。
葬式の日、彼女の父は無言で私の肩を軽く叩いた。そして、顔をあげないまま通り過ぎてしまった。私は泣くことさえできなかった。
妻があの日作っていた肉じゃがを、私は捨ててしまった。一刻も早く悲しみの記憶を失ってしまいたかった。けれども、なぜだか二人で暮らしていたアパートの狭い部屋からはどうしても離れることができなかった。
そして、私は味覚を失った。
炊き立ての米。にら玉。豆腐の味噌汁。肉じゃが。
食卓の上に並べた食器を前に、私は正面の空席を見つめた。椅子とテーブルの隙間が、意味ありげにこちらを見返した。妻はそこにいないのにもかかわらず、その隙間は不思議な温かみを保っていた。
味噌汁は少し冷めていた。生温い液体が喉を通過していく。その鮮やかな色彩に反して、にら玉は無機質な舌触りだった。それに対して米はかなり粘着質で、私は顔をしかめた。
そして、肉じゃが。じゃがいもを恐る恐る口に運ぶと、それはまるでたんぽぽの綿毛のようにゆっくりと分解されていった。人参はそれよりも歯ごたえがあり、いんげんは口の中ではじけてしまった。私は無表情に咀嚼と嚥下を繰り返した。
「お肉は先に味付けしちゃうの。噛むと味が染み出してきて、どう、美味しいでしょ。」
肉じゃがは彼女の得意料理だった。お帰りと言う声。疲れたでしょ。今日は肉じゃがよ。そんな会話は、遥か遠くにあるもののように感じられた。食欲をそそる匂い。二人の食卓。愉快そうに笑う妻。いくら望んでも、それらはもう手に入れることができない。
私は、妻に「美味しい」と言うことができなかった。彼女の作ってくれた肉じゃがをただ黙って食べることしかできなかった。運命というはなんて残酷なのだろう。彼女はいなくなってしまったし、私は味を感じることすらできなくなってしまった。
私は肉を噛みしめた。そして、そこにあるはずの味を感じ取ろうとした。いつものように、それは不親切な感触しか与えてくれなかった。けれども、今日の私は諦めない。ゆっくり上下の奥歯で挟み、ゆっくり舌の上で味わう。挟んで、味わう。それを何度も繰り返す。
私は空になった器を前に両手を合わせた。もちろん、今日の夕食も味がなかった。私の中に存在していた味という概念は、妻が死んだ時点で完全に破壊されてしまったのだ。私は壁際に飾られている彼女の写真に目をやった。無表情の女性。それが私の妻だ。
「今日も味がなかったよ。」
そう報告すると、彼女は微笑んだ。