金魚
「お客さん、さっきから熱心に見てるねえ。買っていくかい?」
店の奥から店主が顔を出す。禿げた頭を面倒臭そうに掻きながら、こちらを見ている。
僕がその問いかけに答えることはない。通りを人々が行き交う。僕は雑踏を背に、ただ金魚を見つめ続ける。
金魚鉢の底には、白い小石が敷かれている。小さな水草が何本か植えられている。そして、真っ赤な金魚。美しい対比を前に人は足を止め、うっとりと眺めるのだろう。
けれども、僕は敷石にも水草にも美しい対比にも興味はない。ただその揺れる尾鰭に目を奪われてしまったのだ。
金魚は円を描きながら静かに泳いでいる。決して止まることはない。そして、その尾鰭は不規則に動いて、僕を誘惑する。
その尾鰭に勝るものを僕は知っているだろうか。どんなに美しい女性も、どんなに荘厳な景色も、どんなに瀟酒な音楽も、この尾鰭を前にしたら屈服するしかない。そして、それは僕も同じだ。
僕は目を見開いて、顔を金魚鉢に近づける。尾鰭が描く優美な曲線を見逃さないように。尾鰭が放つ妖艶な波紋を見逃さないように。
金魚はぐるぐると水槽の中を旋回していたが、だんだんと下降していく。鉢の底に沈んでいく。尾鰭は一際大きく揺れて、水面を荒立たせる。僕はその動きに息を呑む。圧倒的な美しさ。大きな鼓動。生命の叫び。頬に涙が伝う。
やがて、金魚は白い敷石の上に横たわって、動かなくなった。僕はその尾鰭に触れたいと思う。愛撫したいと思う。接吻したいと思う。
「お客さん、大丈夫?」
僕は決心する。水面に再び波紋が広がる。指先が魚の冷たい体に触れると、それは小さく喘いで動かなくなった。
「お客さん、何してるの!」
怒鳴り声が響き渡る。驚いて振り向くと、店主の眉間には深い皺が刻まれている。僕は金魚鉢から手を離す。その拍子に鉢がひっくり返る。水、敷石、水草、金魚。全てがばらばらになって、通りに散乱していた。
「もうその金魚は売り物にならないね。もともと死にそうだったんだ。」
手にはさっき触れた尾鰭の感触がまだ残っている。それは金魚の最後の叫びだったのだ。全身が震え出す。
「だから、半額で買い取ってくれ。なあ、お客さん。」
僕の耳には、もう彼の声は入らない。僕という存在が一度分解されて、再構築されるのがわかる。
「あ、ちょっと、お客さん!」
僕は通りを走り出す。萎びた金魚と冷めやらぬ興奮を胸に。