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南の島の病院は今日もパタパタ大忙し

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桜花びら舞う穏やかな午後



「は?」声が出た。
いや、本当は声はでなかった。
会社の会議室の天井照明を消そうとして、壁に付いている4つのスイッチの最上段に触れようとした手が外れた。2㎝下にずれた。
慌てて狙ったスイッチをもう一度押してみた。
指にスイッチは触れたけれど、それはとんでもなく遠い感触。なにか違うものを触れているような感触だった。スイッチは切ることができた。
続けて残りのスイッチも何とか切ることができた。だけれども、それはそれは、いつものものではなかった。
不思議な時間と不思議な手の感覚だけはハッキリと理解できた。
今、たぶん、とんでもないことが起きてるって。
春の夕闇が迫った薄暗い部屋で一人、そう理解した。(なぜか外人のように顔を左右に振りながらね)

いろんなことを考えながら事務所の自分の席に戻ると、
「お先に失礼していいですか?」
と最後まで残っていたスタッフに声をかけられた。
「はい」
短く短く言葉を選んだ。
わかっていた。
たぶん発声もうまくできないだろうという事を。
六十年もまともに生きていれば、それぐらいは理解ができた。(法学部卒業てもね)
一人残った部屋で、記憶をたどり、椅子に腰かけながら両手を平行に挙げてみた。
あっというまに右腕が自然と下に降りてきた。ゆっくりゆっくりと。
その光景は決定的だった。
(うわっ、やっぱり、そうなるか)
明らかに、左の脳の障害。一過性の脳虚血・脳梗塞の典型的な症状だった。
深く椅子に座り直して、何度も繰り返して腕を平行に挙げてみたけれど、それは同じことだった。事実は事実だった。
今、間違いなく、脳は声を出さずに悲鳴をあげている。静かな爆弾が脳の中で爆発していた。
動揺と呆然とが入り混じった不思議な時間が訪れた。

(では指は動くのだろうか)
両手の指を動かしてみた。少し右手には違和感があるけれど、ほぼ、普通に動いている。
少しほっとしながらも、机の上にあったボールペンを右手で掴んで、持ち上げてみた。(重い、遠い、鈍い感触だ)
コピー紙を、デスクの引き出しから取り出し、文字を書いてみる。
何故か、自分の名前を書きだしていた。
呆然とした。
それは、とんでもないと言えるほど、全くと言っていいほど、文字にはならなかった。ならなかったと言うよりも、ほぼ、思った通りには動かなかった。
(まいった、これは、まいった)
何十年も何千回も書いただろう自分の名前の文字が書けない。目をつぶっても、そこそこ綺麗な文字で書けるはずの文字が書けない。
思ったところにペン先が下りないのだ。
「うーん」
声が出た。

(しゃべれるのか)
自分の名前を口にしてみた。
想像通りに、ひどい口調だった。
ゆっくりもう一度口にしてみた。なにも変わらなかった。壊れかけたAIロボットよりもひどいものだった。なんだか、おかしくて笑ってしまった。

(たてるのか、歩けるのか)
椅子からゆっくり立ち上がってみた。
(ほうほう、立てるんだな、不思議なものだ)
ゆっくり歩いていた。人にはどう見えるかわからなかったが、違和感は無かった。足には影響は出ていなかった。
そこそこの焦りの中で救いだった。
ただ、歩きながらも間違いなく右手の肘から手にかけての違和感は消えなかった。肘から先が異様に重かった。

救いだったのは、性格からなのだろうが、慌てふためきながらも冷静だったことだった。
(さて、どうする)何度も何度も自分に問いかけていた。
春の夕暮れは孤独だった。