ハーバー
他の人員は出ていて、手が離せなかったB部長と部下のひとりMだけが残っていた。
さて、その少し前に、同社と懇意にしている取引先の社長が横浜銘菓「ありあけのハーバー」を一箱置いてくれていっており、その割り当て二ケがMにも来ていたのだが、Mがそれをおいしく食んでいる時にひと悶着が起こった。
「M君。それ辞めてくれないかな」
「はい?」
Mが声の方向……B部長を見ると、声は遠慮無く続いた。
「ごみ箱を抱えて食べるのってヘンだよね」
B部長とMは、B部長が二か月前に親会社から転籍してきて以来の付き合いになる。そしてB部長がMのその習慣を前々から問題視していたらしい――注意の機会を伺われていたらしい――ことにも思い至って、Mは戸惑った。
「すみません。僕は、職場や身辺を汚したくないだけなんですが……」
それはMにとって、実際善行のつもりだった。「食べかすがぽろぽろ落ちる」食べ物を食べる時にオフィスや身の回りを汚すのを防ぐため・掃除の手間を省くための、彼の当たり前の配慮なのだった。
「K社の社長は、たびたび良いものを贈ってくれる。ハーバーすごくおいしいね」
「……はい」
B部長の説得術であろうか、Mの肯定の姿勢が地ならしされる。が、Mは緊張に耐えながら続けた。
「ただ僕は、汚いのは嫌だと思っているだけです」
持論を繰り返したMを、B部長はたしなめた。
「M君は、M君のやり方イコール世間のやり方だと思ってるの? M君ってそんなに正しいの?」
「いえ……決してそんなことは……」
B部長は仕事ができることもあって自信家であり、高圧的な嫌いもあったが、ここでもやはり詰問口調が現れ始めた。
「じゃあM君はどうするの?」
Mにも思うところはもちろんあったが、立場も性格もあり、意地を通すような場面にすることはやはりMにはできない。
少し間をおいて、Mは答えた。
「……辞めます」
そうしてMがごみ箱を脇に置いてハーバーに食いつくと、B部長は満足そうに作業に戻った。
その数時間後。
「まだ釈然としないけど、そうだそうだ、それより楽しいことを考えよう……うん、もう一個もらえてて良かった。ハーバー本当においしいよな~……おいしさの秘密が知りたい」
Mがそうつぶやきながら廊下を歩いていると、角から出てきた、別の部署に所属する若い女性社員Fに出くわした。
と、Fは神妙な面持ちでMに切り出した。
「Mさん、私小耳に挟んだんですけど……」
「何を?」
その心配そうな表情を不思議に思いながら尋ねると、彼女は答えた。
「K社のハーバーの件で、Mさんが辞めるって」
「あ~……ああ、あれね」
Mが苦笑いすると、Fは言った。
「オレは汚いのは許せねえ! って、B部長にタンカ切ったんですよね」
自分がそこまでイキッたことになっているのを否定せず、Mは尋ねた。
「どこで聞いたのそれ」
「Wさんが立ち聞きしちゃったみたいで、私に教えてくれたんです」
Wは、Fと同じ部署に所属する女性社員である。なお、正確には、WはB部長とMの口論を途中から立ち聞きしたのであり、そのやりとりの冒頭――「ごみ箱を抱えて食べるのは辞めろ」うんぬん――は完全に抜け落ちてしまっていたのだが、その抜け落ちをMもFもまだ知っていない。
「そっか~……まあ、結局負けちゃったんだけどね」
彼女は憤った。
「社でそんな悪質なことがあるなんて……ハーバーがそんな悪質な贈り物になったなんて、私も残念です」
そして彼女は、パソコンを頭に思い浮かべながら続けた。
「B部長なんてウイルスに感染して、いろんな汚いのが漏れちゃえばいいのに」
と彼は、視野に「マスク着用」の張り紙を入れたままで言った。
「B部長去年大病やったばっかりらしいのに可哀想じゃない!?」
B部長の穴という穴からいろいろと漏れ出るのを想像し、さすがにMにも同情がされたのだった。
「そんなの関係無いですよ」
彼女はいたずらっぽく笑った。
「B部長ってBMW乗ってますよね? それも汚く見えちゃいます」
「まあ汚いBMWが嫌なのは同意するけど……汚くするならファミリーカーだよね」
「えっ!? ファミリーカーはきれいですよね?」
「ほら、子供は汚いからさ」
「え~っ、子供はきれいですよ! 天使じゃないですか」
「そういうことじゃなくて」
「……肉欲の結果ってことですか?」
「パブリックなスペースで何だかすごい言葉が出たよ!?」
「と、とにかく」
彼女は取り繕って言った。
「私、Mさんは悪くないと思うんです」
「ありがとう」
彼は微笑んだ。
「僕は、最悪でも、僕の自室ではきれいでい続けようと思うよ」
「私もそうです」
二人には、ここで二人の間に、暖かい連帯感が生じたように思われた。
「だからもう一個あるハーバーは、持ち帰って、普通にごみ箱の上で食べようと思う」
「え~っ!?」
一転彼女は眉をひそめた。
「ん?」
「食べるんですか?」
「だめなの!?」
「ごみ箱が出たんなら、そこはまるっとシュートでしょう」
「な、何で捨てさせたがるの? 捨てるぐらいならFさんにあげてもいいけど欲しいの?」
「要らないですよ!」
「これはもう分からん」
Mは苦笑いをした。
「これごみ箱が出なければいいの? ルンバならいい?」
「……ルンバよりお祓いか何かじゃないですか?」
「Fさんの部屋って祭壇でもあるの!?」
「無いですよ! 私の部屋を何だと思ってるんですか」
「じゃあどんな部屋なの?」
「わ、私のプライバシーはいいんですよ! お祓いがアレなら塩でもいいです」
「ハーバー塩味って食べられないじゃん!」
「だから食べなくていいんですって!」
これは何かがおかしい、と思い合うふたりだったが、彼女のほうが取りなした。
「違うんです! 私はこんな話がしたかったんじゃないんです」
ため息をついてから、彼女は言った。
「長話もあれなのでここではこれぐらいで……ただ、ハーバーに隠された秘密を私も知りたいんです。だからよかったら、私にそっと教えて下さい」
彼女は手帳にメモ書きすると、破って彼に差し出した。
「某SNSのIDです。Mさんの答えによっては、私も考えます」
「ええっ!? 考えるって、つまり……」
「じゃあ失礼します」
「ちょ、ちょっと……」
彼女の後姿を見ながら、彼はつぶやいた。
「……Fさん、ハーバーにめちゃくちゃ食いつくんだな~。確かに悪魔的においしいけど……」
彼も歩き出し、彼女が言って彼も言っていたその語句を繰り返した。
「ハーバーの秘密、か……」
そして、手渡されたメモ書きを見ながらつぶやいた。
「横浜のハーバー工場って、デートコースにできるのかな?」
(了)