ミューズ
おれの母親はパリ・コレにも出たスーパーモデルだった。楽屋で遊んでいるおれを見初めたのは当時のプロデューサーだったが、女の服を着せ、メイクを施してステージに出したのは単なるジョークにすぎなかった。しかし、年齢も身元も非公開の新人モデルをメディアがこぞって書きたて、いつの間にか本職のモデルに仕立てあげられていた。
もちろん、いつまでも女のふりをしていられるわけではない。早いうちに男だということが業界に知られたが、その事実はかえって新鮮な驚きをもって受け容れられた。イヴなどという戯けた芸名をつけられ、雑誌やショーできらびやかなスポットライトを浴びるおれのプロフィールに、男性であるということが書きくわえられることはなかった。テレビや映画でも、おれはミステリアスな美女として紹介された。だれもが男であると知ったうえでだ。性転換した女やニューハーフのタレントに飽きはじめた時代に、真新しい刺激として差し出された新種の道化。いわば国中が共犯となった悪ふざけだった。
おかげで、おれはどこにいっても揶揄と苦笑いの混じった眼差しを受けるはめになった。完璧な美を美しいと認めるのは、実は難しい。しかし、決定的な欠陥を備えた美なら、人間は好意的に受け止める。愛でられ、崇められているようでいて、実際には畸形のようなあつかいを受けているのだ。まるでNASAに捕らえられた宇宙人だ。演じる作業は苦ではない。しかし、正常とはいいがたい状況に、おれは辟易していた。
はじめはふざけているのだと思ったが、どうやら安達は本気でおれが女だと信じているらしい。中年男の純真な眼差しは、かえっておれをさらに息ぐるしい気分にさせていた。
シャッターの降りる音で、我に返った。ベッドの脇で、戸張がカメラを構えていた。
「なにしてんの」
「仕事だよ。今度の写真集に載せる」
「今の写真を?」
真剣そのものといった表情の戸張を嘲笑う。裸の上半身はもちろん、局部まで丸見えの写真が、女性モデルであるイヴの写真集に掲載されるはずがない。
「候補のうちのひとつだよ」
戸張は涼しい顔でいった。
「安達に見せるつもりだな」
「仕事を頼むだけだ」
「悪趣味な奴」
「教えてやれっていったのはおまえだろ」
おれはベッドの上に仰向けになり、わざと蓮っ葉な調子でいった。
「そのうち、あんたに本気になるかも」
「やめとけ。おれにはすでに心に決めた相手がいる」
喜劇めいたやりとり。だれもがふざけている。本気なのは安達だけだ。男のミューズなど、それこそ冒涜だ。美しい心を壊す喜びが、おれの口元を綻ばせた。
「メールを見たか?」
挨拶もなしに、戸張はいった。
「今見てる」
携帯電話を左手に持ち替えて、おれはパソコンのメール画面を操作した。
「悪くないじゃないか」
「天才だからな」
「自画自賛か」
「おれじゃない。安達のことだよ」
メールに添付された画像を開く。まだ成長半ばといった裸の体をベッドに横たえた男の写真が、画面いっぱいに表示された。
「安達はなんて?」
「おまえは神以上に偉大だと」
おれは椅子にもたれて苦笑いした。ついに神を越えてしまったわけだ。
この写真が世に出ることはないだろう。しかし、おれははじめて、写真に写った自分の姿を美しいと思った。
おわり。