コンフュージョン先生
ありがちなことだがその上司にはサイコパスの気質があり、それで彼女も上司を嫌っていたが、同時に、自分を責めもしていた。十代の頃から美人でない自覚もあったし、トロくさいという自覚もあった。
今のところに採用されたのが間違いだった、早く辞めたい……とため息を漏らしていたが、転職先も、いわゆる永久就職先――養ってくれる男性――も、かんたんには見つかりそうになかった。
だから、その日もひとりぼっちのアパートに帰ると、いつもと同じように、泣きながら夕ご飯を食べた。
そしてその日も、眠るまでの、大好きなポテトチップを食べながら大好きな動画を視聴する時間が、彼女にとって一番の安らぎだった。
もっとも、体重があまり増えては困るので、そのポテトチップを食べるのも遠慮がちにならざるを得なかったり、泣きながらエルゴサイザーを漕がざるを得なかったりもしたのだが、さてその日は、そんな彼女に背後から声がかかった。
「汝の願いを三つ聞いてやるから言いなさい」
突然の声に彼女は心臓が止まるかと思うほど驚き、振り返って更に驚いた。
自室に、いつの間にか、一匹の動物が入り込んでいた。それも、とても大きな……
「カ、カ、カエ……」
「カエルじゃないぞよ。これでも我は、魔神のはしくれである」
さきほどと同じ質の声が、それから発せられた。
「……その魔神様が、どうして私なんかのところに」
彼女が恐る恐る尋ねると、それは答えた。
「帰り道に、骨董品店の前を通ったろう。あそこから付いてきた」
彼女がぽかんと聞いていて何も言わなかったので、部屋に動画の音だけが流れた。
魔神は続けた。
「今日の夕方骨董店の壺から解放されたのだが、解放してくれた人間は、我を見るや逃げていってしまった。だから代わりに汝を選んだ」
人間をまるまる飲み込みそうな大きな口と、スケールアップしたイボイボの皮膚。
彼女は、ああ、これは逃げるかもな……と納得し、同時にこの訪問者に一定の同情を寄せた。また、カエルということで――いや、「本人」はカエルではないと主張したばかりだが――グリム童話『カエルの王さま』も想起されて、つまらない日常を壊してくれるファンタジーへの入り口を感じ取りもした。
「汝も我が怖いか」
「そうでもないです」
幸い彼女は状況に適応して、もう微笑むことができた。
「そうか。それでは願いを……」
「それは要らないです」
彼女は微笑みながらさえぎった。
「私、お父さんとお母さんから、そういうのに頼っちゃだめだって言われてきたので」
と、それは目を大きくした。
「何と! しょうもない生活をしているのに、何と意外とまともな!」
「余計なお世話です」
彼女がムッとすると、それは言った。
「汝のことは分かっている。勤め先で、上司から毎日いじめられている。転職先も恋人も見つけられない。だから帰ってきて、毎晩泣いている。そうだろう」
彼女が何も答えなかったので、部屋に動画の音だけが流れた。
「だが、我と出会ったのは幸いだった。さあ、何でも言いなさい。我はこれまでにも……」
と、彼女はすすり泣きを始めた。
「可哀そうに。さあ、何でも言いなさい」
彼女は突っ伏して泣いた。
それは、ただ黙って彼女を見ていた。
「……それじゃあ」
顔を上げると、彼女は鼻をすすりながら言った。
「ポテトチップを、一年分下さい」
「そんなものでいいのか」
「……はい」
それが確かめるように見つめると、彼女は言い直した。
「具体的には、〇リングルスのサワークリーム・アンド・オニオンがいいです」
「……よかろう」
と、そこに忽然と、たくさんの箱が出現した。
そしてそのダンボールには、彼女が大好きな、ひげと蝶ネクタイのおじさんの顔……
「すごい、本当にできるんだ」
「信用していなかったのか」
感心している彼女に、それは呆れるように言った。
「しかしこれで分かっただろう。さあ、聞いてやれる願いはまだ二つ残っている」
彼女は、困ったような顔をした。
「汝は本当に人が良いようだ。しかしこのまま、このいっぱいのぽてとちっぷをたらふく食べて泣き寝入りするだけでいいのか。ブヨブヨと太って泣き寝入りするだけで」
「私は……」
「私は?」
「じゃあ……ポテトチップをいくら食べても、太らないようにして下さい」
「そんなものでいいのか」
「……はい」
それは彼女の顔を見つめて、そして告げた。
「決意は固いようだな。よかろう」
そしてまた沈黙があって、部屋に動画の音だけが流れた。
「これで汝は、ぽてとちっぷをいくら食べても太らなくなった」
「ホント!? やったー!」
ガッツポーズをした彼女に、それは言った。
「……汝は変わっておる。本当に変わっておる。願いの二つまでもこのようなことに使ってしまった人間は、汝が初めてだ」
カッターを持ってきて早速ダンボールを開く彼女に、それは続けた。
「考え直しなさい。もはや願いは残り一つだけだ。汝は、欲望が無いフリをしてはいけない。する必要が無い」
彼女は真面目な顔になって、それを見た。
「我に生々しい欲望をぶつけてきた人間は、ざらだ。それが当たり前なのだ。汝は勤め先で、上司から毎日いじめられている。転職先も恋人も見つけられない。だから帰ってきて、毎晩泣いている。そうだったな?」
また沈黙があって、部屋に動画の音だけが流れた。
「お父さんとお母さんが……」
「それは分かった。それで、汝はどうしたいのだ。上司が憎いか? クビを飛ばすか? あるいは事故死でも、病死でもかまわないのだぞ」
「私は、平和主義者なので……」
「汝は、今の仕事が好きで入った。それが狂わされてしまった。あのパワハラ上司のせいで」
「わ、私は課長のこと憎んでなんかないです」
「ひとりだけ善良ぶらなくてもよい。その男は、どうせ大勢から嫌われておる。そうであろう?」
「……いえ、頼もしい方です。課は課長のおかげで持っています」
「汝をいちいち衆目の前で叱り付けてもか」
「私は課長を人として好きです。好きになります」
「忙しい中くだらない私用をたびたび押し付けられても、作り笑顔で頑張り続けるのか」
また沈黙があって、部屋に動画の音だけが流れた。
「素直になるのだ」
そしてまた沈黙があって、部屋に動画の音だけが流れた。
「そ、それじゃあ……わ、私の上司を……」
「そうだ、その意気だ」
「私の上司を……」
「そうだそれでこそ人間だ。好きなフリをする必要なんて、どこにも無いのだからな」
「私の上司の体を、ポテチに変えちゃって下さい!」
「好きの結末が怖いから冷静になろ!?」
(了)
作品名:コンフュージョン先生 作家名:Dewdrop