祖父の思い出
俺は、某県庁所在地に住まう、中産階級の家族に生まれ育った。そこには両親がいて、父方の祖母がいて――父方の祖父は、俺が生まれる前に亡くなっていた――、兄がいた。
そして母方の祖父母は、俺たちとは別に、この都市から車で一時間の距離の田舎に住んでいた。
今回は、この母方の祖父の話をしたい。
と言っても、皆さんもそうではないだろうか? このような関係では、大した思い出なんてできない。
俺もバカなクソガキだったので――と書いて、先の「皆さんもそうではないだろうか?」を取り下げたい。皆さんはバカなクソガキではなかったろうから――、田舎の親戚に行って楽しんだかと言えば、あまりそうだとは言えない。
母方の祖父母が飼っていた犬が怖かったし、俺は携帯ゲーム機を持ってきて遊んでいた。兄は、どうしていたんだっけ? どうも思い出せないが、まあ似たようなものだったんじゃなかったかな。俺の兄なので。
というわけで、今思い出すと本当につまらないクソガキが来て「じいじ」も「ばあば」も取り扱いに困ったのではないかと思われるのだが、そのせいだろうか、この祖父がやたらと何かをくれたがった記憶がある。
とにかく、菓子をたくさんくれる。
お金をくれる。お正月でなくとも。
俺も母に、クロの家(飼い犬がクロという名前だったので、母の実家は子供向けには「クロの家」と呼ばれていた)に行くといつも何かもらえるのがうれしい、と言っていたように思う。
今思えば、つくづく申し訳無かった。
生涯を農業に捧げた祖父。その、日に焼けた、節くれ立った手をぼんやりと思い出す。そんな朴訥な祖父だったから、小さな液晶を見つめることに夢中な「都会」のクソガキに対する愛情表現の術に、やはり困っていたように思える。
そして俺は(俺も?)、中学生、高校生になると、その母の実家に行くのに付き添うのが億劫になった。
進学で東京へ出て、そのまま就職すると、いよいよ滅多に会わなくなった。
それからは、「祖父が認知症にかかった」という話を聞き、公私の忙しさもあって遠くで気の毒がった後、葬儀で対面しただけだった。
叔父が涙ぐんでいたのを、思い出す。大人の男が泣くのは、そう見かけられるものではない。俺ごときでは想像し切れない想いが、とめどなく涙のしずくになったのだろう、と思った。
俺にもいつか、ああ涙ぐむ番が巡りくるのだろう、とも……。
さて、俺は、車の後部座席に揺られていた。
コロナ禍もついに落ち着いて、この正月、俺は三年ぶりに帰省した。三十日まで働いてしまって、移動自体がストレスに思われたが、来てみれば全然悪い気はしなかった。
運転席に座るのは父。俺の隣には母。この車の後ろには、兄――俺と違って地元に残り、既に結婚して親孝行してくれているありがたい兄――の一家がついてきていた。
そうして着いたのは、静かな田舎の静かなお寺……母方の祖父の墓である。
両親は月に一度はこの墓参りに来ているようだが、初七日にも四十九日にも出なかった俺にとっては、葬儀以来の再会だった。
ありがたい小春日和の空が、青くて高い。
兄夫婦が、墓石に水をかけた。俺が周囲の雑草をむしった。母が香花を供え、毎度のお酒――祖父が好きだった――と、旬のみかんを供えた。俺が東京から持ち帰った菓子も供えた。
そして線香を上げて、兄夫婦の幼子も含め手を合わせて目を閉じた。
……生涯を農業に捧げた祖父。その、日に焼けた、痩せこけた顔を思い出す。そんな矍鑠(かくしゃく)としていた祖父も、認知症になった末に亡くなった。誰ひとり逃れることの叶わない、生病老死……
「お母さん、いつも何かもらえてうれしいね!」
突然俺はそんな無邪気な声を聞いて、目を開けた。
それは兄の子供の声だったような、あるいは俺自身の声だったような、あるいは祖父の声だったような、真昼の錯覚だった。
そしてそんな錯覚が、今更のように、俺の目頭を熱くさせた。
……感傷的な話ですみません。
以上、読んで下さってありがとうございました。
(了)