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Evasion 1巻 和洋折衷『妖』幻想譚

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「フリーさんから離れろ!!」
 菰野は叫びと共に、重い扉を力一杯開け放った。

 鍵のかかっていない扉。
 それはやはり、菰野のために開けてあったのだろう。
「菰野!!」
 フリーは、涙を浮かべながらも嬉しそうにその名を呼んだ。
「威勢がいいじゃないか」
 葛原は、脇差を抜くとフリーの首筋に刃を向ける。
「そんな態度をとれる立場なのか?」

 息を呑み、身動きが取れなくなった菰野を、久居は扉の影から窺う。
(菰野様……)
「久居も出て来い、居るのは分かってるんだ!!」
 葛原の要求に、久居は小さく顔を顰めた。
 いないふりなど通用しないのだろう。
 菰野とフリーのことを考えれば、早急に出てくる以外の方法は選べなかった。

 両手をあげて、久居は櫓へと足を踏み入れる。
 久居が出来たことは精々、扉が自然と閉まらないようにするくらいだった。

「葵、確保しろ」
「はっ」
 指示を受け、葵は久居の両腕を後ろで拘束する。
「久居様……すみません……」
「いえ……」
 小さく謝る声に、久居も小さく答える。
 葵は、体格差のある久居に膝を付かせると、久居の首へ腕を回した。
 普段の久居なら、動きを封じられるだけのはずだった。
 けれど、久居の首元にはいつもあるはずの布がなかった。
 首元に葵の腕の体温が伝わると、久居は激しい眩暈に襲われた。
 急激に霞む頭に、主人の言葉が蘇る。
 首元に気を付けるよう言われてから、まだ数刻も経っていないというのに。
(申し訳……っありません……っ)
 険しい表情で耐える久居の額に、冷や汗だか脂汗だかわからないものが、じわりと浮かぶ。
 グラグラと足元が揺れて、自身が真っ直ぐ立っているのかも分からない。
 葵が、久居の荒くなってゆく呼吸に気付いた。
(熱い……?)
 腕に伝わる異様な熱に、久居の顔を覗き込めば、彼からは深い悲しみと激しい自責の気配がする。
(久居様の、お体の様子が……?)

 久居の頭の中では、消えているはずの記憶の断片が、ぐるぐると乱暴に掻き混ぜられていた。
 悲しげな瞳から止めどなく涙を零す女性が、幼い彼の首を絞める。
 何度も何度も、幼い彼は意識を失う。
 けれど、それは終わらなかった。
 守りたい。助けたい。苦しい。助けてほしい。そんな願いの断片が、彼の心に濁流となり流れ込む。
 受け止めきれない感情の渦から自分を守ろうとするかのように、久居の視界は白く白く染まってゆく。
(意識が……もう……)

 どこからか、そんな久居を呼ぶ声がする。
『久居……』
 それは、冬の海岸に打ち上げられていた久居を、拾い育ててくれた人の声だった。
『久居、菰野をお願いね……』
 菰野の母である、加野の柔らかな笑顔が蘇る。
 隣には、亡くなったばかりの譲原の姿もあった。
『頼んだぞ、久居……』
 譲原もまた、久居に居場所と果すべき使命を与えてくれた人だった。
(加野様……譲原様……)

 久居は、意識を手放すわけにはいかなかった。
 菰野を命に換えても守ると、久居は二人に誓っていたから。

(菰野様!!)
 久居は、重く纏わりつく過去の記憶を振り払うように、主人であり守るべき存在である菰野の背だけを見つめた。

 菰野はチラリと久居を振り返る。
(久居は、意識を保つので精一杯か……)
 むしろ、あの状態で意識を保っているのは奇跡的だと、久居をよく知る菰野は、彼の忠義を肌で感じる。

「菰野」
 義兄の声に菰野は顔を上げる。
「こいつの姿を見てみろ」
 葛原は、少女を拘束している棒を軽く回して見せる。
 横を向かされたフリーの背からは、透き通る翅が広がっている。
 頭上には、長い触覚が美しく曲線を描いていた。
(翅が……、それに触角も……)
 菰野は、それが義兄によって暴かれたのだと知る。

「これが人じゃないのは分かるな?」
 葛原の落ち着いた声。
 依然、刃は少女の首筋を一瞬で切り裂ける位置にある。
「はい……」
 菰野は静かに答えた。
 フリーの瞳に、じわりと涙が滲む。
「では、何に見えるか言ってみろ」
 菰野は、一瞬躊躇うように息を呑み、視線を落として答えた。
「……妖精、です」
「――っ!」
 フリーは、首筋に当たりそうな刃に顔を逸らすことも叶わず、息を詰めぎゅっと目を閉じた。
「そう、お前の母を殺した妖精だ」
 葛原はそう告げながら、ここまでの全てがうまくいっている事に、実に満足気に微笑んだ。
 返す言葉を失ったのか、黙り込む菰野へ、久居が澱む意識の合間から、当時の記憶を探る。
(菰野様……、それは違います……!)
 ここまで、それを訂正しなかった自分を責めつつ、久居は記憶を引き摺り出した。
(あの事件では、確かに原因を特定できませんでしたが……)

 あの日。
 加野が亡くなった日の夜。

 菰野の部屋を出た久居の背に、声がかかった。
「久居、菰野はどうした」
 久居は、振り返ると同時に礼の姿勢をとる。
「譲原皇」
 記憶の中の久居は、まだ髪を括っておらず、黒髪を椿油で後ろへと撫で付けていた。
「泣き疲れてお休みになりました……」
 久居は、悲しみに暮れていた菰野の姿に、じわりと眉を寄せる。
「加野の死因については、何か言っていたか?」
「いえ、それは何とも……。急な事で動揺されているご様子でしたが、思い当たるような事は無いようでした」
 譲原の問いに、久居はなるべく正確に答える。
「そうか……」
 譲原は視線で周囲を確認すると、声を一段低くして尋ねる。
「久居、お前はどう考える?」
「私ですか?」
 意見を求められ、久居が言葉を選びつつ答える。
「そうですね……、毒を盛られたと考えるのが妥当でしょうか……」
「ああ、そうだな。私もそう思っているところだが……」
 譲原は、久居が噂に惑わされていない事に、ひとつ頷きを返す。
「今調べている限りでは、毒の検出は無い……。
 ただ、今回のような症状を起こす花が、華陽にあるらしい。この辺りでは知られていないが、その花は毒の痕跡も残さないとか……」
「華陽……」
 久居は、小さくその地名を繰り返した。
(葛原様の母君、雪華様の御国ですか……)
 譲原が、目の前に跪くまだ幼さを残す少年が、この情報を正しく受け取ったことを知る。
「まだ推測の域だ、この話、菰野には伏せておけ」
「はい」
 譲原は、皇らしい顔を見せ、久居に顔を上げさせる。
「久居は加野の直属だったな」
「はい」
「これからは菰野の側近として、あれの傍に居てくれ」
 願ってもない命に、久居は有り難く、決意を込めて応える。
「はいっ!」
「加野が狙われた理由が分からん以上、菰野も狙われんとは言い切れぬ。よく気をつけてくれ」
 久居はこれ以上無いほど姿勢良く譲原皇を見上げると、真摯さを凝縮したような黒い瞳で誓いを立てる。
「加野様に拾っていただいたこの命に換えても、菰野様をお守り致します」
 あまりに真っ直ぐなその誓いに、譲原はどこか寂しげに苦笑を浮かべた。
「それは頼もしいが……。加野が亡き今、お前まで失っては、菰野が立ち直れまい」
 譲原はもう一度周囲を見渡す。
 誰も見ていない廊下で、彼は久居の肩をそっと撫でた。