ささやかな日々
僕はこれで電話をかけようと、公衆電話を探した。ホームにはなく、改札近くまで行ってようやく公衆電話を見付けられた。でもその道すがら、
(家の電話番号は何番だったっけ)
そんなことを考えていた。家の番号って意外に覚えていないものだ。普段は携帯の履歴でかけてるから、暗記する必要なんかない。妻の携帯番号も同様だ。
僕は公衆電話の前で、途方にくれてしまった。何か覚えている電話番号は無いか考えてみると。
(あ、あの番号なら)
それは妻の実家の電話番号だ。まだ携帯がなかった時代に、夜な夜な交際中の妻に電話していたから、あの番号なら今でも覚えている。
改札の窓口で事情を話し、千円札から両替してもらった10円玉でその番号にかけた。
公衆電話を使う僕の横を通り過ぎる乗客たちは、まるで珍しい物でも見るかのようだ。それに背を向け、暫く待つと、コール音が止まり、
「もしもし、長谷ですけど」
お義母さんがでた。そして事情を話し、妻の携帯番号を教えてもらった。でも彼女はすごく心配した声で慌てているようだが、子供の迷子じゃないんだから・・・
とにかく暗記した番号を忘れる前に、一旦切った電話にもう一度10円玉を入れて、妻が出ることを祈った。すると1回目のコール音で妻が出てくれた。
「もしもし?」
「あ、もしもし」
「今どこにいるの?」
「あ、それが・・・電車で寝過ごしてしまって、播州赤穂駅に」
「播州赤穂って? 大阪のずーーと向こうやん? 帰って来られる?」
「もうすぐ京都行きの電車があるし、それで戻るけど、ちょっと遅くなるな」
「京都まで戻れるんやね?」
「ああ」
「じゃ京都駅まで迎えに行くから」
「じゃ、取り敢えず京都駅で」
僕は電話を切ってから、妻に申し訳ないと感じた。そしてふと時間が気になると、もう京都行きが来る時間だった。慌てて2番線に戻ったところに、その電車がホームに入って来た。
乗客は多かった。吊革を掴んで立つしかないが、ようやく落ち着いて、どうしてこんなことになったのかをゆっくり考える時間が持てた。そして目を瞑りながらじっくりと思いだそうとした。
「お客さん。起きられますか?」
(え? また寝てたか?)
僕は慌てて目を開けた。するとそこは、行き付けのバーのカウンターだった。どういうわけか記憶がつながらない。
「家の人、呼んでおきましたよ」
「え? 女房を?」
店のマスターが、隣のカウンター席のグラスを片付けながらそう言った。この店は駅前のビルにあるバーで、新入社員の頃からよく利用していて、妻もよく連れて来ているので、マスターとも顔なじみだが。
(あれ? マスター、凄く老けたな。こんなに白髪多かったかな?)
僕は目を細めながら、手元を照らす灯りより上の暗がりにあるマスターの顔を見て思った。
「どれくらい飲んだっけ?」
「バーボンを半分ほど空けられました」
「ほう、そんなに。何かいいことでもあったんやったかな?」
「はい、今日はすごくご機嫌で入店されましたよ」
(そうだったか。よく覚えてないけど、仕事がうまく行って気分が良かったんだろうな)
僕は他の客がはけて静かになった店内に、しんみりした気分で目を瞑った。
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カラカン、カラン・・・
バーのドアにぶら下げられた鐘が鳴った。
「お父さん!」
マスターは入り口を見てほほ笑んだ。
「今起きておられたんですが、また眠られましたよ」
「すみません。いつも」
娘はカウンターに突っ伏して、寝息を立てる父親を揺らした。
「また奥様が迎えに来られると、思ってらしたようですよ」
「いつもそうなんです」
「もうどれくらいになりますかね~。奥様が亡くなられてから」
「20年です。そのあと父が痴ほう症になってから、私を母と勘違いしてるんです」
マスターは、娘の顔を見た。
「確かにお母様にウリ二つですよね。茉莉花さんは」
「ええ・・・」
「茉莉花茶(ジャスミンティー)でもお入れしましょう」
娘が父のお気に入りだと言う、この店のジャスミンティーを飲んでいると、
「あ、来てくれたんか・・・」
「起きた? じゃ帰りましょう」
「うーん。荷物はなかったかな?」
すると、周りを見渡す老人に、マスターが、
「今日は手ぶらで来られましたよ」
「支払いは私がします」
「いやいや、ボトルキープしていただいてるんで、今日のお代は結構です」
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僕は妻と店を出た。彼女は僕の左腕を抱えるように支えながら、歩いてくれている。
「僕は最近、物忘れがひどいんや。時々、何をしていたのか思い出せへんのや」
「そんなん気のせい。仕事で疲れただけやん」
「・・・そうかな。しっかり覚えてる時もあるんやけど」
「どんなこと?」
「・・・ムレスナティー」
僕はにやけながら言った。
「ああ、図書館のカフェの?」
「図書館? あれ、図書館のロビーやったんか」
「最近行ってないやんね」
「この前行ったとこやろ」
少し驚いた。妻は忘れてしまってるのかって。
「・・・そうやったけ。そうやね」
ちょっと気まずい雰囲気になったから、話題を変えてみた。
「伊吹山ドライブしたな」
「あ、覚えてる? 山頂までハイキングしたけど、荷物はほとんど私が持って登ったんやで」
「そうやったんか? 悪いことしたな。言うてくれたら、僕も持ったのに」
「疲れてたやろ。そやから仕方ないわ」
「ヘビーメタル聴いてたん覚えてるわ」
「外国で仕事してたさかい、英語の歌好きなんやろ」
僕はコインパーキングに止められていた見慣れない車に乗せられた。
(この車どうしたんだろ? 誰かに借りて来たのかな)
僕は車に乗って、シートベルトを締めながら、
「そう言えば、京都駅まで迎えに来てもらったこともあったな。いつもすまんな、面倒かけて」
「ええ、京都駅は驚いたわ。京都好きやもんなぁ」
「家は京都やん」
「何言ってんの? 京は京でも大津京よ。滋賀県やで」
「・・・滋賀?」
僕は驚いた。滋賀になんか住んだことないと思うのに。
「そうやで。滋賀に引っ越したの忘れたの? 今日も滋賀まで帰るで」
「・・・あ、ああ、そうやったな・・・」
妻はゆっくりと車を運転し始めた。
僕は腑に落ちない感覚のまま、作り笑顔をしている。
「でもあの時よく電話してくれたわ。長谷家に」
「お前の実家の番号だけは、覚えてたんや」
「・・・ふふふ、向こうもびっくりしたやろね」
「そう言えば、お義母さん、慌ててはったな」
「私は京都駅のホームで電車から降りてきた姿見て、ホッとしたわ」
「すまんかったな。でもポケットに千円入れといてくれて助かったんや」
「今も胸ポケットに入れてあるし」
妻が笑った。僕は妻の笑う顔を見るといつも安心する。
僕の記憶が断片的なのは認識している。きっとアルツハイマーの症状だ。そのことに妻は気付いているのだろうか。
でも僕は、こんな妻に支えてもらうことができて、なんて幸せな男なんだろうと思う。
了