ゆず(ある話の外皮)
14インチのPCの向こうで誰かが話している。時々、私の名前が聞こえて、頭の中で処理する前に知らない国の言葉に変換されてしまう。知っているはずの誰かのアイコンが淡く点滅しながら私にそれでも話しかけている。PCのファンの音が妙に大きく、しかし、どこかここではない部屋から響いているような。ファンの音が床の方にゆっくり遠のいて、頭上の灯りが一瞬弱くなって、私は上を見上げる。外を走るトラックの荷台で大型の段ボールが揺れる。卓上カレンダーにつけられた赤い丸。新潟の豪雪地帯のけもの道を思い出す。川岸に置き忘れた化学繊維製の手袋を思い出す。東京の西側の街で見た永遠の夕焼けをフィルターのように目の前を染める。
――甲高いPCの通知音が私たちを画面前に引き戻す。私の意識はぼんやりとどこかに行きたがっているらしいというのに、いろんなものがそれを引き留める。
視界の端で私の部屋のものたちが静かにしている。PCの向こうだけが騒がしい。液晶の粒が一つ一つ分離して見えるような気がしてきて、そう言えばこのPCは4K表示になっているから800万ほどの粒たちが集まっている。それらが縦横無尽に離散しないようにこの箱が留めている。(いや、粒たちの方が収まりたがっている?)廃れた山奥の蛍の群れの行く末を考える。
画面の向こうの誰かがまた、私を呼んだ。今度は少し焦っているような声だった。私の名前が私の言語となって処理されて、自分が呼ばれているのだと気が付いて、画面の向こうの志摩さんに空っぽな返事をした。
甘い匂いがした。砂糖ではない、果実の甘さだ。
緩い記憶を連ねていた。気を緩めればふっと糸が途切れて、記憶の欠片が離散してしまって、それこそ蛍の群れのように夜の端に向かって消えていく。繋ぎとめるために画面の向こうの志摩さんの話に耳を傾ける。内容は覚えていない。耳だけが志摩さんの方を向き、鼻は果実の甘さを感じ、両目はここではない山奥の駅を見ている。知らない駅だ。誰もいないのに、誰かがいた痕跡がしっかりと残っていて、それを探したくなって両目はますますPCから遠のいていく。甘い匂いの正体は昨日柚子風呂に使った柚子のせいだろう。抜けきって皴だらけの柚子から今になって匂いが漂う。
志摩さんは私の様子がおかしいと思っているらしい。私も私で、自分の様子がおかしいことに気づいている。今は「仕事」中なのだ。志摩さんが私のために時間をつくって話をしている。明日の会議のための資料作り。自分の年収の何十倍もの取引のための資料。細かい指摘や会議の方向性など、私たちはこの打ち合わせの中でいくつも観点で合意していた。その記憶はあるというのに、ある時から志摩さんとの会話は頭に残っていない。柚子の甘さが強く残っている。私は志摩さんとの話の合間に返答をしている。しかし的を射た返答ではない。だんだん会話のずれが大きくなっていっているようで、意識が違う方角を向いている私でもそれはよくわかっていた。仕方ないと志摩さんは一度通話を切った。去り際に「今日は仕事やめて、明日に備えな」と言った。言葉だけが頭に残って、その意味は私には分からなかった。
その後、私は何もしていなかった。仕事をやめるわけでもなく、14インチのピクセルたちは同じ場所に居続けた。ソフトウェアのアップデートを促す表示が出てきて、知らないうちに消えた。しばらくして、14インチのPCはスリープして暗い画面の向こうにピクセルたちは帰っていった。設定値からして、約20分が経過していた。その20分の間、私は両目に映る山奥の駅舎を探索していて、柚子の匂いがその光景のBGMとなって爽やかな風が吹いた。14インチのピクセルたちの行方を私は知らない。
前述のような感覚と、普通の感覚が私の中に確かに存在して、朝と夜が入れ替わるようにごく自然に入れ替わっていく。二つの感覚の切れ間に柚子の香りが漂い始めたのはこの時からであった。まだ仕事が終わっていないので、この先を書くことはできない。
作品名:ゆず(ある話の外皮) 作家名:晴(ハル)