消えていくゾウの群れを見送りました。
なお実朝の名は後鳥羽が与えたもの。後鳥羽は実朝を取り込んで幕府への影響力を高めようとし、実朝のこれに応え、自らの意思で京から正室を迎えようとした。後鳥羽は自ら選定して縁戚の娘(坊門信清の娘)を盛大な調度品と共に鎌倉へ送った。この婚姻で公家社会の気風は鎌倉へ浸透し、実朝も和歌と蹴鞠をたしなむ公家然とした将軍となる。実朝暗殺?で公武対立が鮮明に 実朝は武士として初めて右大臣に昇進し、公武融和の象徴となったが、承久元年(1219年)、突如として鶴岡八幡宮で暗殺されてしまった。政子らは後継者として皇族将軍の東下を要請したが、後鳥羽はこれを拒否した。幕府存続に手を貸す気が無かったのか、宮将軍の安全問題を憂慮したのか、真意は不明だ。1219年、後鳥羽は寵愛していた白拍子(しらびょうし)の所領の地頭が不法行為をしたとして、罷免要求を幕府に出している。これに対し義時は弟の時房(ときふさ)に一千騎を与えて上洛させ、断固反対の意を伝えた。後鳥羽は子の順徳天皇(じゅんとく)と多くの朝臣、寺社勢力を糾合して幕府討伐を決行する事となった。更に延暦寺僧兵を味方に付ける為に、天台座主を尊快入道親王とし、さらに多くの寺で幕府調伏の祈祷を行った。準備を整えた後鳥羽は、5月14日に流鏑馬(やぶさめ)と称して畿内近国の兵を招集。手始めに京都守護の伊賀光季(いがみつすえ:北条氏の外戚)を討ち、倒幕の狼煙を上げる。承久の乱の勃発である。武士勢は朝廷の招集に応じなかった 後鳥羽は御家人の力で義時と北条氏を倒そうと考えていたのだ。だが、後鳥羽の思惑に反して幕府の結束は堅く、御家人たちは呼び掛けに応じなかったのだ。御家人にとって土地は命であり、例え相手が朝廷であっても、それを保護してくれる幕府は命がけで守らねばならなかったのだ。幕府は遠江以東15か国からなる大軍を集め、東海道・東山道・北陸道の三道から京へ攻め上がった。頼みの延暦寺も力にならず、後鳥羽方は連戦連敗を重ねる。6月15日に京はあっさり制圧された。後鳥羽は敗北を認め、宣旨の撤回と、幕府の公家政治への干渉権を承認する。乱後、幕府の統治は西国にまで及ぶ 幕府の戦後処理は厳しく、仲恭天皇は廃され、後鳥羽・順徳・土御門の各上皇は、隠岐・佐渡・土佐へ配流された。
西国を中心とした後鳥羽の所領3000ヵ所が没収され、有力御家人に与えられた。
以後、幕府の統治は西国にまで及ぶようになった。朝廷の権威は大きく失墜した。しかし、鎌倉時代の後半になると、元寇の恩賞に関する問題等が発生し、御家人は困窮していった。 幕府は徳政令(永仁の徳政令)を出すなどして御家人救済に努めたが解決には至らず、各地で悪党と呼ばれる者が活動を始め、幕府と御家人との信頼関係も薄いものとなっていった。そんな中、天皇親政を志す後醍醐天皇が即位し、時代が大きく動き始める。~正中の変~ 1324年(正中元年)、後醍醐天皇は倒幕を企てるが、事前に六波羅探題に察知され、計画に参加した側近の日野資朝と日野俊基が捕らえられた。 翌年、資朝は佐渡に流されたが、後醍醐天皇と日野俊基は許されている。 ~元弘の変~ 「正中の変」後も討幕を考えていた後醍醐天皇は、1331年(元弘元年)、またもやその計画を六波羅探題に察知されてしまう。 後醍醐天皇は笠置山で挙兵、皇子の護良親王や楠木正成もこれに応じて挙兵するが、翌年、後醍醐天皇は捕らえられて隠岐へ流され、側近の日野俊基は鎌倉に送られて葛原ヶ岡で処刑された。 先の「正中の変」で佐渡に流されていた日野資朝も斬罪に処せられている。~千早城の戦い~ 幕府は、1332年(元弘2年)、千早城に立て籠もる楠木正成を攻撃したが、なかなか崩すことができなかった。 このことが各地で倒幕の気運が高まった原因ともいわれている。〒585-0051 大阪府南河内郡千早赤阪村千早
千早城跡。~吉野山~ 1333年(元弘3年)初め、護良親王が楠木正成と呼応して吉野山を本拠として挙兵したが、閏2月1日、鎌倉幕府が編成した二階堂道蘊率いる6万の軍勢に攻められて落城。 この戦いで、村上義光が護良親王の身代わりとなって自刃している。 その後、高野山へ落ちた護良親王は、千早城を囲む幕府軍の兵糧を遮断した。~六波羅陥落~ 1333年(元弘3年)、赤松円心が挙兵。 後醍醐天皇も隠岐を脱出し、船上山で倒幕の綸旨を発した。 足利高氏(尊氏)も幕府に反旗を翻し、5月7日、赤松円心らとともに六波羅探題を攻め落とした。~新田義貞の鎌倉攻め~ 足利高氏らが六波羅探題を落とした翌日の1333年(元弘3年)5月8日、上野国生品神社で新田義貞が挙兵。〒370-0314 群馬県太田市新田市野井町 小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いで北条軍を破り、鎌倉を巨福呂坂、仮粧坂、極楽寺切通の三方から攻めた。(現在の埼玉県所沢市北野)(現在の東京都東村山市諏訪町)(現在の東京都府中市)神奈川県鎌倉市に存在する切通しで鎌倉七口のひとつ。小袋坂とも書く。鶴岡八幡宮裏手の雪ノ下から山之内を結ぶ道。
作品名:消えていくゾウの群れを見送りました。 作家名:MultipleWoun