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原点

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四日目



-時価~
 僕はメニューに書かれた「時価」という値段と睨み合っていた…。

 礼文島のバンガローで朝を迎えた僕らは、ペラペラの寝袋から這い出て戸を開けた。
 やはり空は晴れ渡っていて、一年分くらいの天気運を使い果たしてしまっているかもしれないと思った。
 一夜ですっかり効力をなくしてしまった蓄光塗料のように、あるいは光合成に勤しむ植物のように太陽の光を身体全体で吸い込む。
 広場にある水道の蛇口をひねり、勢い良く飛び出す水で顔を洗った。心做しか東京の水道水よりも冷たく澄んでいると感じてしまうのは、その場の雰囲気に流されやすい僕の悪い癖だ。
 口をゆすぐと、生まれつき上の歯が一本足りない僕の歯茎に冷たさが鋭く突き刺さった。その感覚から、水がかなり冷たいことは間違いなさそうである。
 広場には人の気配は無く、どうやら宿泊客は僕らだけらしかった。もっともバンガローの中には何の設備もなく、ただ木の床があるだけで、「宿泊」という言葉が相応しいのかどうかは分からない。
 礼文島のバンガローは一泊三千円ほどなので、一人当たり約六百円の計算である。お金の乏しい大学生にとってはうれしい値段だ。
 朝特有の身体の気怠さはまだ抜けきらなかったが、自転車のペダルに足をかけると不思議と力がこもり、僕らは勢いよくこぎ出した。
 昨日ほど時間に追われていないため、僕らはじっくりと礼文島の大自然を眺めながら進んだ。
 自転車をこぐ度に、気怠い身体が徐々に伸びていくようで、調子が出てくる。
 坂道を登り切ると、昨日は絶望を覚えた憎々しい上り坂が、清々しい下り坂に姿を変えていて、僕らを海岸線へと導いてくれる。
 坂を一気にくだると、大海原が眼前に現れ、潮風が心地よく吹いてくる。
 太陽に輝くゆったりとした海には白い波頭が無数に点在していて、その上を海鳥が悠然と飛んでいた。
 港まではもう上り坂は無いに等しい。なだらかな坂をゆっくりと下り、港に向かって南下する。
 港の近くにはうすゆきの湯という日帰り温泉があり、僕らはそこで汗を流した。潮風でパリパリになってしまった髪が、髪の毛本来の息を吹き返す。
 温泉から上がると、汗と潮風が張り付いた不快感で曖昧になっていた空腹が急に襲い掛かる。
 港まで歩く途中にホルモン焼き屋があったが、わざわざ礼文島まで来てホルモンというもの少し違う気がしたし、せっかく風呂でさっぱりしたのにまた油まみれになるのかと思うと少し気が引けた。
 港に着くと、まずは借りた自転車をレンタルショップに返却し、近場の食事処を探った。するとハートランドフェリー乗り場の二階に「武ちゃん寿司」という看板を発見する。
 礼文島の新鮮な海鮮にありつけるということで、満場一致で「武ちゃん寿司」への入店が決定した。
 店内は広く、ほとんどがテーブル席で誰しもが想像するような寿司屋の内装とはかけ離れている。五、六十人は入りそうで、食堂と言う方がしっくりくる。
 メニューが置いてあったが見るまでもなく、武ちゃん寿司に入店が決まった瞬間から僕はウニ丼を注文しようと決めていた。
 一応メニューを開いてみる。
 磯ラーメンやシーフードカレー、ほっけの開き定食等、僕の固い意思を揺るがすメニューの数々が並んでいたが、その蠱惑的なネオン街の如き言葉を全て振りほどき、見事ウニ丼までたどり着いてみせた。
 ただ、たどり着いたのは良いのだが、ただならぬ違和感を感じた。何やら見慣れない文言が記載されているではないか。
 これまでの人生で得てきた知識を総動員し、どうひっくり返そうとしても、そこには「時価」と書いてあるのだった。
 「時価」は不動明王の面持ちで揺るがずそこに居座り、僕らはすっかり委縮してしまった。
 しかしここで引き返すわけにはいかない。
 恐る恐る店員さんにウニ丼の「時価」を尋ねると、三千円だと言う。確かにランチにしては高いとは思ったが、払えない値段ではないし、未だ体験したことのない「時価」の味に思いを馳せ、気が付くとウニ丼を注文する自分がいた。
「時価」を注文した僕は、おめでたくもそこに少しばかりの「大人」を見出す。記憶は定かではないが、五人のうち半数以上が「時価」の餌食になっていた。
 はやる気持ちを抑えながら待っていると、店員さんがウニ丼を乗せたお盆を持ってこちらにやって来る。店員さんが丼をテーブルに置くと、眩いほどの光沢を放つオレンジが視界に飛び込んできた。
 オレンジ色の隙間からはつやつやとした真っ白い米が覗いていた。
 〈これが時価のウニ丼…〉
 少しばかりの醤油をたらし、ウニと白米を絶妙な分量で箸ですくい上げ、口に運んだ。
 「ん…?」一瞬ウニの味がしないと思った。だがその認識は間違いで、これが新鮮で良質なウニの証拠であることにすぐに気が付いた。
 ウニを食べるとまず初めに感じるあの独特な臭みはいっさい無く、程なくして磯の香りがふっと抜けたかと思うと、後を追うようにしてウニの濃厚な風味が口の中を包み込む。
 その臭みの無さと濃厚さは今まで食べたウニとは一線を画しており、僕の中のウニの概念を変えてしまった。
 身はしっかりとして、それでいて舌の温度によってとろけてしまうそのウニは、醤油とよく絡まり合い、自分を主張しながらも白米を主役にするような品の良さも持っていた。まさに極上のウニ丼、時価も頷ける。三千円を出す価値は十分にあると思った。
 食べ終えてしまった虚しさを感じもしたが、大きな満足を得た僕らは寿司屋を後にした。
 昨日と同じく午後一時半に香深港を出発するハートランドフェリーに乗り、礼文島に別れを告げた。
 来るまでは得体の知れない島であった礼文島だが、僕らは果たしてその魅力にすっかり取り憑かれてしまったようだった。
 船が動き出すと、その揺れが疲れた身体に心地良く、稚内に着くまでの間僕は眠ってしまった。
 稚内港に着いた僕らは愛車との再会を果たし、日本最北端、宗谷岬へ向かった。宗谷岬は稚内港からは東に位置しており、左側に宗谷湾を臨みながら、海岸線を走らせた。
 気がつくと空には薄い雲が覆い出してきていた。
 宗谷岬には幾人か観光客がおり、二等辺三角形の形をしたオブジェの前で写真を撮ったりしていた。
 太陽は高度を下げつつも、オレンジ色と言うよりは、白ワインの様な色に雲を染めている。
 宗谷岬から眺めた青黒い大海原は、漸近線という概念は無くなって、はるか遠くの方で空に敷きつめられた低い雲と見事に重なっている。
 その景色は美しくもあったけれど、もう旅は折り返しなのだという憂いのようなものも感じられて、最北端に立っているという誇らさに似た高揚感と混ざり合った。
 雲の切れ間から零れ出した薄明光線が、海を所々シャンパン色に染めていた。


作品名:原点 作家名:きよてる