犬になった美女
おかげで三十代後半に差しかかってなお独身、お声をかけられる頻度もかけてくれる男のレベルも下がってきており、高いプライドが深刻に痛めつけられるようになっていた。
という彼女だったが、弱音を打ち明けられる相手もおらず、これまで読もうともしなかった自己啓発書についに打開策を求めることにした。
「評判いいみたいだしおじさんも感じがいいし、これなら読んでやっていいか」と買ってきたのが、平積みにされその表紙で著者その人がやさしい微笑みを見せていた、デール・カーネギー著『人を動かす』だった。
「人に好かれるには『誠実な関心を寄せる』か……私、他人に関心無いんだよなー」
独り言をつぶやきつつ、先生のご高説を拝読する。
――友を得る方法を学ぶには、わざわざ本書を読むまでもなく、世のなかでいちばんすぐれたその道の達人のやり方を学べばいいわけだ。その達人とは――われわれは毎日路傍でその達人に出あっている。こちらが近づくと尾をふりはじめる。立ちどまって、なでてやると、夢中になって好意を示す。何か魂胆があって、このような愛情の表現をしているのではない。家や土地を売りつけようとか、結婚してもらおうとかいう下心はさらにない。
「……ケンカ売ってんのか」
結婚したいという気持ちを持ってわざわざ『本書』を買い、わざわざ読み進めてきたのが他でもない彼女である。
買ったことを後悔し、不承不承、文字を追い続ける。
――何の働きもせずに生きていける動物は、犬だけだ。にわとりは卵を産み、牛は乳を出し、カナリヤは歌をうたわねばならないが、犬だけはただ愛情を人にささげるだけで生きていける。
「バッカみたい」
そうなのだ。彼女は犬ではなく、猫のように生きたいのだ。実際、二十代の時には普通にそれができていた。生きているだけでちやほやされた。愛情を人に捧げるのではなく、捧げられて生きてきたのだ。
彼女は本を閉じた。「わざわざ本書を読むまでもなく」などと著者が自認する無用な本、言われなくても解っていることを言ったお節介な本を置いて、目を閉じた。
この本には amazon で 1 を付けとこう。はあ……それにしても、今更犬になれるのかな? いや、なれるなれないじゃないか。なるしかない。なれなかった場合のことは、あんまり想像したくない。
って言ってもやっぱり、そうかんたんに犬に転向できるなんてとても思えない。猫であることを楽しんできた期間だけで一〇〇パーセントを占めるのが、ここまでの人生……。
彼女は目を開くとスマートフォンを手に取り、彼女の居住地名に「催眠術 評判がいい」というワードを加えて検索をかけた。
* * *
彼は苦労人ではあった。彼の公私は、長く安定させられたことが無かった。
若かりし彼が大いに期待して選択した職業は、バブルが弾けると後悔の対象に落ちぶれた。それでも一所懸命だと根気よく頑張り、独立して何とか軌道に乗せたところで、今度はリーマンショックに殺されかけた。それでも一所懸命だと努力に努力を重ねて克服し、何とか利益を増大させてきたのが公生活のあらましである。
一方私生活では、美女を娶って鼻高々な時期もあったが、気の強さと浪費癖のひどさに苦しめられた末に別れた。とあっさり書いたが、その別れもまた恐ろしく大変だった。財産分与で揉めに揉め、たびたび裁判に呼び出され、かつて愛し合った相手と深く憎しみ合わなければならない不幸を何年にも渡り味わった。親権もカネもむしり取られ、そのダメージからよろよろと立ち上がって出会いを探し、付き合ってみては失望し、また付き合ってみては失望し、もう諦めかけた頃にとうとう得られたのが現在の新妻だった。
結婚相談所の仲人が「ぜひ紹介したい」と持ちかけてきた、彼より二十歳も年下のこの新妻は、彼にとってまさに奇跡だった。美人なのに彼の前妻とは異なってひたすら素直、ひたすら従順だった。高額な金品を一切望まず、海外旅行を一切せがまなかった。新妻は彼の帰宅を何時になっても待っており、彼が帰宅すれば瞳をうるうるさせながら飛びついて、彼に何度もキスを浴びせた。何か魂胆があってそのような愛情の表現をしているとは、彼には到底思われなかった。夜の生活もやはり前妻とは異なって、美しい新妻の従順でありつつも動物的な営み方が、彼を大いに満足させ続けた。
という彼の公私そろった貴重な安定は、はたして公のほうで亀裂が入った。
「ちくしょう!」
自宅の車庫で、彼はベンツを蹴り飛ばした。傷が付いたかもしれなかったが、それはどうでもよかった。
長年信頼を寄せて大きな仕事を任せてきた幹部社員が、彼をこっぴどく裏切ったのだ。またしても法的紛争をやらないといけないのかと思うと、彼は憤りを抑えられなかった。
「おかえりなさい!」
彼が玄関のドアを開けると、その日も新妻が飛びついてきた。
「今日はそんな気分じゃないんだ」
彼が新妻を押し戻すと、新妻は素直に距離を保った。
「ごめんなさい……何があったか聞いていい?」
「ずっと大事に面倒見てきてやったやつが、巨額の横領事件を起こしやがった。俺はもう、何も信じられなくなってきた」
前妻と言い幹部社員と言い、自分が目をかけてやった相手はどうしてこうも裏切るのか。彼のやり場のない苛立ちは、新妻に向けられた。
「おまえもどうせ全て演技なんだったら、この機会に止めてくれないか! 二十も上の俺がとっととくたばるのを待ってて、一人でカネをしゃぶりたいんじゃないか?」
これは彼女に対する、彼の甘えだった。加虐心であり、試し行動だった。
もしも裏切るなら傷が浅いうちに裏切って去って欲しかったし、そうでなければその時そこで彼に対する愛情を表現して欲しかった。彼は彼自身の幼稚さを自覚できたが、この場面では止められなった。
「ひどい……」
新妻の目から涙がこぼれた。新妻は、子どものように泣き出した。
「すまなかった、俺がバカですまなかった。俺と、俺がこれまで付き合ってきたやつらが全部悪いんだ」
すると新妻は彼に飛びついて、湿った頬と湿った鼻を彼に寄せた。
「うわーん、分かってくれてうれしいです」
そして鼻をぐずらせながら、恥ずかしそうに続けた。
「ちなみに私がしゃぶりたいのは、カネではなくて……」
「えっ?」
彼女の温かみを感じながら、男は答えを待った。
「……カネではなくて、ホネです」
(了)