短編集 くらしの中で
交友 その一
友達は宝であると書いている人が多いが、それは自分が活き活きとしていて友達に不自由していない人のいう言葉だ。
今のコロナ禍で明らかなように、世界が封鎖され行き来ができなくなるとその状況下で交流できるのは極わずかで、自分に必要な人以外は遠慮する。
その内姿が見えなくなる人もいてたまに思い出すと、あれ あの人どうなってんの?と噂されながらその内忘れられてしまう。
ついこの間まで大勢の友人に囲まれた暮らしをしていた人が急に独りぼっちの状況になることもある。
突然目の前が真暗になるほどの病気のせいだ。
それは絶対値ではなく年代別に変わって行く。
これを書いている現時点では「健康で意欲があるかどうか」で勝負が決まる年代になったけれど、ついこの間までは違っていた。
上から下がって振り返ってみよう。
十年前は知り合いの内、寡婦になった者はほとんどいなかった。
私も含めてみんな連れ合いも元気。その夫婦生活が如何に満足しているかが勝ち組負け組を決めていた。
私はそれ以前にはもう白組だった。
多分周囲の者は憐憫の眼で私の家族を見ていただろう。
中年といえる40代50代はその差がもっとひどかった。
連れ合いも子供も順調な者は私のような境遇の者へのもろに顕わにする軽蔑の視線があったには相違ないが、当の私はそれにさえ気づかず、それどころじゃなかった。
子供を持つ友人は遊学中という者もいてどこの大学へ入ったかも差をつける。
三十代、子供が居ても居なくても夫婦が中心。
親と同居している場合はその関係も関わってくる。
二十代、まさに十代の青春時代が花拓く時だ。
結婚して子供がいる者、結婚はせず仕事に頑張っている人。
容貌も人生で最高にきれいな年代なので、物事が順調であれば幸せ者といえよう。
この各年代がどのように変化していくのかは、それぞれである。
最後に残るのは連れ合いと親しい身内だけということになる。連れ合いも年を取りいつかは一人になるかもしれないという不安もある。身内といえど自分の家族のことで精一杯で兄弟姉妹に関わっている余裕はない。
病気をすれば自分のこと以外考えられないものだ。
又それ以上に連れ合いが難病で世話が大変ともなれば他に目を向ける暇などなくなる。
これらの状況は私が中年期に味わってきた哀感なので、現在それを通り越して振り返ってみるとよくわかるのだ。こつこつ積み上げたつもりでもちょっとした行き違いで去って行った友人もいる。
家族や親族だけで幸せに暮らしているのならそれはそれで良いけれど、もし孤独で鬱になる杞憂があれば、その前に自分から発信し人との繋がりを得ておかないと、他人は忘れてしまうものなのだ。
完
作品名:短編集 くらしの中で 作家名:笹峰霧子