電脳マーメイド
45
朝、彼の広い背中に顔を埋めた姿勢で目を覚ます。
あまりの心地よさに、もう一度眠ってしまいたいくらいだ。
そっと起き上がり、まだ眠っている彼にキスをする。
カーテンを半分だけ開けて、ベランダに出てみる。今朝はそれほど暑くはない。換気も兼ねて、引戸はそのままにして網戸だけを閉めた。
お湯を沸かし、コーヒーの準備をする。間もなく彼も目を覚ますだろう。二人分のカップをテーブルに置く。
コーヒーを入れている間に、彼が目を覚ました。
「あ、おはよう。エ……ライラ」
「おはようございます。コーヒー、飲むでしょ?」
「うん。ありがとう」
彼が起き出す。「今日は、調子は?」
「大丈夫ですよ。ぐっすり眠れましたから」
本当は少し調子が悪いものの、私はそう言った。
「無理はしないでくださいね。元々独り暮らしだったから、大抵のことは自分で出来るので」
「はい。ありがとうございます」
「朝食はどうしますか? 何なら買ってきますよ」
「いえ、一緒に行きます」
「そうですか? 本当に――」
「一緒に行きたいんです」
「分かりました。せっかく二人でいるんですから、一人で抱え込まないでくださいよ」
「はい」
私には、このところの不調の原因が分かりかけていた。信じられないことだが、エレノアが目覚め始めているのだ。彼女自身はあの断崖から身を投げたと信じ切っているはずなのだ。だが、寸でのところで私と同調し、彼女の意識は途切れ、そこに私が入り込んだのだ。なのに、今になって心身の同期に誤差が生じてきているようなのだ。
そもそも一つの肉体に二つの魂は入り得ない。どちらかが出てゆかざるを得ないのだ。その場合は――
よそう、そんな考えは。
エレノアは死んだのだ。だから、私がここにこうしていられるのだ。
「ライラ?」
彼が呼んでいる。
「やっぱり、調子が悪いんじゃ――」
「大丈夫ですよ。今朝がた、変な夢を見ただけですから」
「そうですか?」
私は微笑んで、マグカップを取った。
もう、出来るだけ彼と離れたくはない。せっかくここまで来たのだ。誰にも渡したくはない。共に在る幸せな日々、それは私と彼とに間であればこそ成り立つものなのだ。彼の傍にいるのは、私以外の誰でもあり得ない。
彼はベランダに出て、煙草を吸いながらコーヒーを飲んでいる。それは珍しいことだった。ベランダにコーヒーを持ち出して煙草を吸うということが。
彼は、何か勘づいているのだろうか。まさか、そんなことはあるまい。目の前にいる人間の人格が入れ替わるなど、常人では考えもつかないことだ。でも、彼は小説家だ。たとえ虚構ではあっても、それらしいことを考えているのではないのか。
「健一朗さん?」
部屋の中から呼びかける。
「はい、何です?」
「こっちに来てください」
彼は網戸を閉めて、私の前に座った。
「どうしたんです?」
「いえ。そろそろ朝ご飯に……」
「ああ、そうですね」
彼は、空になったカップを置いた。
エレベーターで降りて、セキュリティのおじさんに挨拶をする。
今朝は少し曇り空で、陽射しは強くはない。
彼と共に歩く道。彼と並んで歩む道。こんな幸せな日々がいつまでも続いてほしいと切に願う。いつまでも、彼と共に歩いてゆきたい。