電脳マーメイド
44
その翌月、私は自分の部屋を引き払った。
エレノアの国へ帰るのではなく、同棲することを彼が許してくれたからだ。
私の荷物は元々それほど多くなく、引越しは1時間ほどで終わった。マンションの管理人と部屋の点検をし、清掃料としての最低額300バーツと光熱費を引いたデポジットが返金された。
引っ越し祝いにピザをデリバリーしてもらい、ささやかなパーティーをした。
今夜ばかりは彼もコンピュータに向かうことなく、楽し気な音楽をかけて色々と語り合った。
「フランスから来たのなら、バンコクは暑いでしょう?」
彼が訊く。
「正確にはマドリッドからです。向こうも暑いですが、ここほどじゃありません」
「私は、夏は暑く冬は寒い京都で生まれ育ちましたからね。いざ覚悟を決めて来たら、こんなものかと思いましたよ」
「京都ですか」
私は言った。「健一朗さんの生まれた町を見てみたいです」
「今はもう、普通の町ですよ。どこもかしこもビルだらけです」
「それでも、有名なお寺とかは多いんでしょう」
私は持てる知識を総動員して訊く。
「そうですね。それは確かに多いです」
「行ってみたいな。でも、健一朗さんはもう日本に戻らないんですよね」
「その覚悟です」
「なんだか私たちって、似た者同士なのかも知れませんね」
「そうなのかな? 私はべつに、好きな人を追いかけて来たわけじゃないですから」
「健一朗さんの意地悪」
「何がですか?」
「さらっと嫌味を言うからですよ」
今日の私は久々に調子がいい。最初はビールだったが、今は白ワインを飲んでいる。
今の健一朗さんは、私だけを見てくれている。ただそれだけでも幸せだった。
「ライラさん?」
「え?」
「どうしたんです? 一人でニヤニヤして」
「内緒です」
楽しい時間は、瞬く間に過ぎてゆく。時刻は既に深夜となり、二人ともしたたか酔ってしまった。
「ライラさんは、先に寝んでください」
彼が言う。
「どうして?」
「ゴミを出しておかないと、蟻が来ますから」
「私も手伝います」
彼が笑う。「これくらい、一人で充分ですよ」
そう言い置いて、彼はゴミを出しに出て行った。
喜びと幸せの中、ふっと意識が遠のく。眠るのではなく、すうっとフェイドアウトするかのように。
ドアが開く音で、意識が戻る。
私は、やっぱりおかしい――
「健一朗さん?」
「どうしました?」
訊くのが恐ろしい。
だから、私は全く別のことを言った。「ライラって、呼んでください」
「どうしたんです? 唐突に」
「いいから、呼んでください」
彼は息をつき、それから言った。
「ライラさん」
「違います。ライラって、呼び捨てにしてください」
「……」
「お願いします」
今は、なんとしてでも意識を繋ぎとめておきたかった。名前を呼ばれることで、私はライラでいられるはずだと思った。
「ライラ」
「もう一度、呼んでください」
「ライラ。いったいどうしたんです?」
「健一朗さんに名前を呼んで欲しい。それだけです」
「それだけじゃ、ないでしょう」
「……」
「私が、何も気づいていないとでも思っているのですか?」
「……」
「ライラ?」
「はい」
「いったい、どうしたのです?」
「私にも、よく分からないのです」
「最近、とても具合が悪そうに見えるときがあります。何か病気でもあるんですか?」
彼が、心配げに私の顔を覗き込む。
「それは、ないはずです」
「熱があるようでもないし……」
「健一朗さんが傍にいてくれたら、そのうちに良くなると思いますから」
「……」
彼が、優しく私を抱き締めてくれる。
「髪を撫でてください」
その手が頭に当てられる。
優しい感触に、うっとりとする。
「私、確かにここにいますよね?」
「何を今さら」
「今さらでも、ここにいますよね?」
「もちろんです。ライラはここにいます」
「ありがとう」
私は言った。「これで、私はここにいられる」
「おかしなことを言う人だ」
「ううん」
彼の胸に顔を埋めながら、私は頭を振る。「とっても大事なことです」
「あなたがそう言うのなら、きっとその通りなのでしょう」
彼が私を抱き締めてくれる。
そう、そうやって私を抱きとめていて。絶対に離れないように――