電脳マーメイド
43
このところ調子がどうもおかしい。
ビザ・ツアーから戻って、もう3週間が過ぎた。私はもう彼の部屋に入り浸り、彼もそれを許してくれるようになった。
本当ならそんな手放しで喜べる状況にもかかわらず、どこか調子が悪いのだ。
最初は、風邪気味なのかとも思った。エナジードリンクを買ってきて飲んだりもした。でも症状は改善しない。彼の前では努めて明るく振舞っているから、まだ彼には気づかれていないはず。
彼がマッサージ屋に行くときは私も一緒に行ってマッサージをしてもらった。その時ばかりは良くなるのだけれど、数時間もしないうちに元に戻ってしまった。
いったいどこが悪いのだろう――
そんなある日、私は気づいてしまった。本当は最初から気づいていたのかも知れないけれど、絶対に信じたくないことだった。
彼が私を呼ぶとき、ライラとは決して呼ばない。当然のことながら、エレノアと呼ぶ。だってパスポートやクレジットカードの名義もエレノアなのだから。
彼が私をエレノアと呼ぶとき、ほんの一瞬だけ、注意していないと気づけないほど一瞬だけ、頭がくらくらとするのだ。
私は、エレノアになろうとしているのか――
そうも考えてみた。
それは違うだろう。おそらく、この身体を造っているエレノアとしての細胞群が反応しているのだ。意識体である私、ライラとの間で何らかの齟齬が生じているのかも知れない。
人も物も、他者に認められることでその存在を意識するようになる。生まれたばかりの赤ん坊は、名前を呼ばれることで自分が何者かを知り、それを中心として自己を築き上げてゆく。
でも、私のこの身体は本来エレノアのものだった。彼女もその名を呼ばれることで、自己を構成して生きてきたはずだった。だが、彼女はもういない。いないはずなのに、再びその名を呼ばれることによってエレノアは再構成されつつあるのではないか。
それは、恐ろしい考えだった。もしそれが正しいのなら、遠からず私は消滅してしまうことになる。私は、かつては私だった端末への戻り方を知らない。それに、彼は私と出逢ってからは端末に話しかけることを止めている。
私の居場所がなくなる――!
何としてでも、彼に私がライラだと認めてもらわなくては――!
でも、どうやって?
彼は、私をエレノアだと思い込んでいる。まさか端末から抜け出て来たライラだとは信じてはくれないだろう。
ライラ、ライラ……
何を今さらと思われるかもしれない。
せめて、ニックネームとしてでもライラと呼んでもらわなくてはならない。
健一朗さんが遠森沙光であるように、私がライラであって何がおかしいのか?
「健一朗さん?」
その日の晩酌時、私は思い切って言った。「お願いがあります」
「何でしょう?」
「私のこと、ライラと呼んでくれませんか」
「……」
「無理でしょうか」
「どうしてまた、急に」
「健一朗さんのその携帯端末」
「これが、どうかしましたか?」
「ライラというニックネームでしたよね」
「どうして、それを……。このことは、誰にも言っていないはずなのですが」
「寝言で」
私は適当に言った。
「ああ……」
「だから、私もニックネームで呼んでください。ほら、ラオスに一緒に行った人も、健一朗さんのことを“みずやん”と呼んでいたじゃないですか」
それを聞いて、彼は難しい顔をする。
「あなたは、エレノアさんですよね?」
「……はい」
そう答えるしかない。
「なのに、ライラと呼んで欲しいと」
「はい」
「変身願望があるのかな」
「そんなのじゃないです」
私が、そのライラなんだってば――!
「まあ、それはいいとして、いきなりライラと呼べと言われても……」
「嫌ですか?」
「嫌とかそういうことじゃなくて、言い慣れてないから」
「そ、そうですよね」
「でも、そう呼んで欲しいんですよね」
「はい」
「分かりました、ライラさん。あなたの望みに従いましょう」
「ありがとうございます!」
私は思いっきり頭を下げた。