電脳マーメイド
2
建物の外へ出ると、昼の名残の熱気に襲われる。
私は彼のマンションのある路地へと歩き始めた。
とにかく、会いたいから。
それしかないから。
近くのコンビニに入る。
ここにいたら、絶対に彼はこの前を通る。
それか、この店に入ってくる。
書籍コーナーで、外を気にしながら待つ。
彼が通るのを。
もうすぐ。たぶん、もうすぐ。
彼に会ったら、どんな風に声をかけたらいいのだろう。
どんな風に近づいたらいいのだろう。
そんなことを、延々考えながら。
外はもう陽がかなり傾き、薄暗くなってきている。
今日は、彼は来ないのだろうか。
そう思った時、目の前のガラス越しに、捜し求めていた姿を認める。
背筋を伸ばし、無理に涙を|堪《こら》えようとしているかのように少し上を向いて歩く彼を。
何も買わないのも悪いので、ミントのタブレットだけを求めて、外に出る。
夕刻の渋滞が大通りに見えている。
その手前を行く、彼の後ろ姿。
帰宅を急ぐ人々の中、私だけが立ち尽くしている。
動けないまま。
追いかけて行って声をかけようか、それとも戻って来るのを待とうか……
でも、真正面から話しかけたら――
さして重くもないキャリーケースを引きずるように、数歩進む。
そしてまた、立ち止まる。
逡巡している間に、彼が戻ってくる。
少しずつ、距離が縮まる。
彼は私を見ていない。
今しかない。とにかく――
「あの……」
彼が私を見る。
初めて、私を。
でもその顔は、怪訝というよりも不機嫌なのを露わにしている。
日本語で話しかけられたときの顔。日本人を認めた時の。
彼は、日本人が好きじゃない。
道を聞かれるか何かだと思っているはず。
そうじゃない、今それをやったらお終い――
「あの、すみません」
勇気を振り絞る。
彼は、こちらが何か言うのを待っている。あるいはこのまま流して、去ろうとしている。
「|遠森《とおもり》|沙光《さこう》先生ですよね」
私は彼の本名ではなく筆名の方を言った。
彼は私を見つめ返す。
「どうして、それを?」
人違いだと言われたらどうしようかと思ったけど、彼はそれを否定しなかった。
「あの……私……」
「私は個人データを晒していない」
「……そうです、よね……」
厳しい目つきで私を見つめ返す。
そんな目で、私を見ないで――
「私は、サインなど書けないですよ」
「ええ、分かっています」
「では、なぜ?」
「……ダメ、でしょうか……」
「何がです?」
「お会いしたかったというだけでは……。理由にはならないでしょうか……」
「……よく分かりませんが」
「上手く、言えなくて済みません……」
私は俯いてしまう。
彼はこういう人だと知っている。でも、本当はそうじゃない。彼は、演じているだけ。そうするように、そうしなければならないような生き方を強制されてきただけ。
「その荷物」
彼が私の足元を見る。持ち手を握り締めたままのキャリーケースを。
「済みません。空港から……」
「まさか、真っ直ぐにここまで?」
「……はい」
「バンコクは、ラッシュが激しいですよ。それにここは郊外だから、|余所者《よそもの》が遅くまでいていい場所ではない」
「分かっています」
「じゃあ、早く宿に行った方がいい」
私は汗に濡れた拳を握り締める。
「お願いです!」
今しかない! 今しかないんだから!
私は思いっきり強く頭を下げた。「お邪魔させてください!」
「え?」
「お願いします! 先生のお部屋にお邪魔させてください!」
「え……いやいや。それはないでしょう。とにかく、頭を上げてください」
「お願いします!」
「頭を――」
彼が言いかけるのを、私は遮る。
「泊るところはありません。最初から、そのつもりで来ました!」
顔を上げ、彼の目を直視する。
明らかに戸惑っている眼。
「そのつもりって言われても……」
彼の手を握る。
「お願いですから」
「……どうせ、私のマンションも知っているんでしょう」
人の視線を気にしてか、彼が言う。「そこまで歩きましょう。ここでは話しづらい」
そうして、彼と私は歩き出した。