電脳マーメイド
41
バスの中で中途半端に眠ったせいで、もう眠気は失せていた。いや、眠くはあるのだと思う。でも、このままではどうにも眠れそうになかった。
私は注がれたウィスキーをちびちびと飲む。
「すっかり酒飲みになってしまいましたね」
彼が言う。
「そうですよ。責任とってくださいね」
「そいつは参ったな……」
彼は苦笑した。
「ビザ・ツアーに参加すると時間が乱れるって、ホントだったんですね」
「君は若いから、戻すのは比較的簡単でしょうけど、私くらいになると時間がかかります」
「それでお酒を飲んで、さっさと寝てしまおうというわけですね」
「そういうことです」
彼がコンピュータの電源を入れる。
「こんな時間から書いたりしたら、もっと寝られなくなるんじゃないですか?」
「ええ。そうだけど、思いついた時に書ける状態にはしておきたいから。眠れない時間ほど、もったいないものはないですからね」
「私がいてもですか?」
「そういう問題じゃないんです」
「分かってます。ちょっと意地悪を言ってみただけです」
「人が悪いな……」
「ねえ、健一朗さん。何かお話を聞かせてください」
「読み聞かせは苦手なんですよ」
「そうじゃなくって、あなた自身のこと」
「私の?」
「私、健一朗さんのこと、もっともっと知りたいんです」
「でも、大体のことはもう知ってるんじゃないですか?」
「いいえ。例えば、いつ頃から小説を書くようになったのかとか」
「ああ……」
彼が宙を見る。「それは、実のところ私にも正確なところが分からないんですよ」
「そうなんですか。そんなに前から?」
「中学の時に文芸サークルに入っていて、短編くらいは書いていたし、それ以前に小学2年か3年の時の半日記でリレー小説をやったこともあります。高校生の時は小説よりも詩がメインだったし……。本格的に書き出したのは、18か9の時でしょうか」
「やっぱり、下積みがあったんですね」
「今だって下積みですよ」
「そんなこと、ないです」
「そう言ってもらえると、嬉しいな」
彼はグラスに残ったウィスキーを飲み干した。「じゃあ、今度は私から質問します。エレノアさんはフランス人ですよね? どうして日本語で書かれた私の本を?」
「私、日本文学科を受講していましたから」
よくもまあ、こんな口から出まかせを言えたものだと、自分で呆れる。
「なるほど。それにしてはマイナーな私の本に、よく出会ったものですね」
「運命だからですよ」
「運命か……」
彼が二杯目の水割りを作る。
「本は読む人を選ぶって、健一朗さんが書いていた言葉ですよ」
「そうですね。でもあれは、正確には私の言葉じゃない。もう忘れてしまったけど、誰かが書いていたことです」
「どちらにせよ、私はあなたの本に出会えたことに感謝しています。今は、あなた自身にも」
「そこまで褒められると、照れくさいな」
「もっと自信をもっていいんですよ」
「でも、実際にはそんなに人気の作家というわけでもない。どちらかと言えば底辺だし」
「猿は本を食べないという諺があります」
「へえ、そんな諺が?」
「私が今、作りました」
「なんだ、そうなんですか。でも、言い得て妙ですね」
「……」
「どうかしましたか?」
急に黙った私に、彼が言う。
「いえ、その……」
「何か?」
「あの……。私、少し眠くなってきました」
「そうですか。じゃあ、部屋まで送りましょう」
「そうじゃなくて」
私は言う。「ここで寝てはダメですか?」
「……」
「健一朗さんは、まだしばらくお仕事するんでしょう? 私、あなたが書いている所を見ながら眠りたい……」
「同じベッドでというのは、ちょっと……」
「ダメでしょうか?」
「……まあ、いいでしょう。私もしばらくは眠れそうにないし」
「ありがとう。健一朗さん」
そう言った時、彼は既にディスプレイに向き直っていた。