電脳マーメイド
40
大使館の敷地内には既に大勢の人が集まっていた。私たちは車を降りた後、一塊になって移動し、個別行動をしないよう注意を受けた。午後の開館時間まではまだあるものの、続々と人が集まって来る。私たちのグループは黄緑色の掛け紐だが、グループによって色が違う。黄緑色は私たちだけのようなので、色を目印にしていると迷うことはない。
もう番号札は貰っているので、先を争うようなこともなかった。
1時過ぎごろ、ようやく番号が表示される。正面の電光掲示板が番号を表示しているが、ほとんど流れ作業のように列が進んでゆく。
「前の人がどうやっているか、よく見ていてください」
彼が言う。
ここのパスポート受取システムは毎回違うのだそうだ。
いざ私の番になり、千バーツを差し出すとパスポートと用紙が突き出され、サインを求められた。サインしようとペンを置いた途端に引き戻され、サインどころかただのチェックになってしまった。受け取ったパスポートはすぐにガイドの人に回収されてしまった。
少し遅れて彼も手続きを終えてくる。友人たちとガッツポーズをしていることから、今回もリマークスタンプは捺されなかったようだ。
今度は車で国境まで行く。ガイドの説明によると、買い物時間が15分ほどあるそうだ。
「買い物って、何を買うんですか?」
私は訊いた。
「免税店があるんですよ。どうせ偽物なんだろうけど、酒と煙草がびっくりするくらい安いんです」
タイ=ラオス友好橋と書かれたゲートをくぐり、イミグレーション前の車寄せに停まる。私たちは急いで免税店を目指した。
「タイに持ち込める荷物には制限があるので、少し手伝ってもらえますか?」
「もちろんです!」
私は彼に応えた。
煙草は1カートン40バーツ、ウィスキーのレッドラベルが100バーツだった。それ以外にもまさかの価格の酒類が並んでいる。
買い物を済ませて友好橋を渡るバス乗り場で、ガイドからパスポートを受け取った。
「あ、京都の市バスだ」
彼が声を上げる。
彼は京都の出身だ。
「懐かしいなあ。こんなところで市バスに乗れるなんて思わなかった」
「記念写真でも撮りますか」
「いや、いいですよ」
バスに乗り込んで座席に落ち着くと、彼はあちこち見回している。「ほら、広告や表示も京都にあったときのままですよ」
さすがに日本で使っていただけあって、車内には冷房が効いていた。
ブザーが鳴って扉が閉まる。車内はまずまずの混みようで、満員というほどでもなかった。
メコン河を渡り、今度はタイ側の入国窓口へ。そこにはすでに行列が出来ていた。
そこで30分ほどかかってようやくタイに再入国することが出来た。イミグレーションを出たところにトイレがあったので、そこで用を足し、バスに向かう。バスの車内には既に十人ほどがいた。一旦荷物を置いてコンビニに入り、飲み物を買った。パンに手を伸ばした時、彼が言った。
「すぐに弁当が配られるので、今は食べない方がいいですよ」
それでジュースだけを買ってバスに戻った。
彼が言ったように、ある程度人数が揃った時点で弁当と飲み水が配られた。一昨日チェックインしたときに頼んだ弁当だ。時刻は午後3時半。朝にお粥を食べただけなこともあって、とても美味しい。
食べている間に全員が揃い、いざバンコクへの帰途に就く。
「順調にいけば12時半、遅くても1時半には着きます」
彼が言う。「これまでで一番遅かったのは3時半らしいですけどね」
「それじゃあ、確かに時間が狂いますよね」
タイ内陸部の広大な丘陵地帯をバスは行く。
途中3回休憩をし、バンコクに戻ったのは彼の言ったように1時少し前だった。バスはルート上で参加者の住所に最も近いポイントで降ろしてくれる。私たちのマンションへはそこからタクシーに乗らなければならなかった。
深夜1時過ぎ、ようやく私たちはマンションに戻れた。
「健一朗さんのお部屋にお邪魔してもいいですか?」
私は訊く。
「べつに構いませんが、今から飲みますよ」
「またですか!」
「変な時間に寝てしまって、目が冴えてるんです」
それは、私も同じだった。「今日買ったお酒で?」
「ええ。美味しいですよ。たまにはビール以外もね」
彼は部屋に入ると早速半パンとTシャツに着替えた。
グラスを二つ出し、ウィスキーを注ぐ。彼と私のウィスキーの量は半分ほど差がある。氷を落とし、冷水で割り、薄い方を私に寄こした。
「ビザランはどうでしたか? 疲れたでしょう?」
「ええ。でも、少しだけ楽しかったです」
「それは良かった」
「でも、もし私一人だったら不安で仕方なかったと思います。健一朗さんは、最初は一人だったんですよね」
「ええ。とにかく同じ札を下げている人ばかり探してましたね」
彼は立って行って冷蔵庫からチーズを出し、薄切りにする。
「あ、ありがとうございます」
私はひとつ摘まんで口に入れた。
「チョコレートもありますが、どうします?」
「いただきます」
彼はチョコも出して、私の前に置いた。
「甘いものとか外に出しておくと、アリの餌食になりますからね。何でも冷蔵庫に入れる癖がついてしまうんですよ」
「ねえ、健一朗さん」
「何です?」
「私、一人の部屋に戻りたくないです。特に今夜は」
私は、伏し目がちに彼を見た。