電脳マーメイド
36
どこで誰が合図するのかも分からないまま、数人がダッシュし、全体が動き出す。
「走って!」
彼に言われて私も走った。
「手を!」
先を行く彼が手を伸ばしてくる。私はその手を握った。
力強く握りしめられる手に勇気づけられて、私も全力で走る。
前方で誰かが転倒する。誰も、それに構う者はいない。
老若男女誰もが全力で走る。
ゲートからイミグレーションの建物までは200メートルほどだが、そこに辿り着いたときにはすっかり息が上がっていた。
オフィスはまだ開いていない。後からガイドの女性が来て、一番先頭にいる参加者の後ろに同じグループの人を並ばせてゆく。だから、到着時点では前から十番目くらいだったのが、三番目にまで繰り上がった。
ゲートが開いたからと言ってイミグレーション・オフィスが開いているわけではない。私たちは十分以上待たされる間に整列させられ、ようやくオフィスの扉が開いた。
ここでも手際のいい係官とそうでない人の差が大きく、出国手続きの段階でも差が出来てしまった。
出国スタンプを|捺《お》してもらうと、ガイドがパスポートと交換に紙片を配ってくれる。その紙片はタイ・ラオス友好橋を渡るバスのチケットだ。
「友好橋は鉄道と併用なんですよ。それと、タイは左側通行、ラオスは右側通行なので、橋を渡った先で車線が変わります」
彼が説明してくれる。
満員のバスに乗り込み、国境の橋を渡る。幅の広いメコン河に架かる橋だ。彼は逐一いろんなことを説明してくれる。
長大な橋を渡り、少し行くと8の字を描いて車線が変わった。そしてすぐにラオス側のイミグレーション前に到着する。
そこで待ち構えていたツアーガイドのところで、人数がある程度揃うまで待つ。この待っている間にも他のツアー会社の団体が次々とラオス側の国境を抜けてゆく。これなら最初から走る必要なんてなかったのではないか。
そのことを言うと、彼も同じ意見だった。
「まあ、文句を言っても仕方ないです。ビザさえもらえれば」
この辺り、彼ものんびりとしている。もっとも、苛々していても仕方がない。
「これからラオスのタイ大使館に行きます。そこでまた長く待たされます」
ある程度人数が集まると、ラオス側の契約タクシーに詰め込まれて大使館に向かう。タイ側と較べてラオスは河一本隔てただけなのに、随分と田舎じみて見えた。バンコクが巨大なだけに、ビエンチャンは荒れ地も多く辺鄙で、途上国の風景そのままだった。それに、舗装もしっかりしていなくて、所々赤土がむき出しになっていたりもした。
ラオス側国境を出てから20分ほどでビエンチャンのタイ大使館に着いた。その時点で入館待ちの列は百メートルを超えていた。最初の時点で三番目の意味なんて全くなかった。
大使館が開くまでにはまだ1時間以上ある。
先に来ていた彼の友達が、彼を呼んでいる。「みずやん、こっちに来いよ。彼女と一緒に」
彼はその誘いに応じて大使館横のオープンレストランに入る。
「ぼけっと待ってるだけじゃつまらんから、飲んじまおうぜ」
言われて彼は、椅子に掛ける。彼は私にも隣の椅子を勧めてくれた。
これからビザの申請だっていうのに、ずいぶんと適当なものだと私は呆れる。もとよりお酒好きの彼にしてみれば、飲めさえすればいいのかも知れない。
「彼女は飲まないの?」
「あんまり強くないんですよ」
彼が、私の代わりに言ってくれる。「コーラがあれば」
「なんだ、水くさい」
そう言いつつも、彼の友達はコーラを頼んでくれた。
「みずやんに彼女がいるなんて、知らなかったな」
「なかなか隅に置けないじゃないか」
口々に好きなことを言っている。
でも、彼は友人たちが彼女というのを否定しなかった。
ひょっとして、彼女認定してくれてるのかな――?
あんまり冷たくないコーラを飲みながら、彼の顔を窺う。
彼はどうとでも取れる表情をしているだけで、彼らの冷やかしにも全く動じていない。
「彼女、ビザランは初めてなんですよ」
彼が言う。
「そう? じゃあ、あとでビエンチャンを案内しないとな」
「その前に酔いつぶれないようにしてくださいよ」
「この程度で酔うものか」
男同士の戯れ合いが続く。
「あ、もうそろそろだな」
誰かが言う。それで朝の宴会はお開きになり、開館待ちの列に加わった。
大使館が開く前にガイドが同じグループずつで並ばせた。後ろの方にいる人は得した気分だったろう。私たちの待ち順はそう変わらなかった。
開門となり、列が動き出す。長椅子が並べられていて、前から順番に詰めてゆく。長椅子が埋まって溢れた人がずっと後ろまで列をなしていた。ここでの順番はある程度きっちりしていて、場所さえ確保してしまえば煙草を吸いに行くのも飲み物を買いに行くのも自由で、抜かされることはないようだった。
門が開いても事務手続きが始まるまではまだ時間がある。陽が高くなるにつれて気温もどんどん上がってゆく。バンコクのねっとりとした暑さとは違い、内陸の乾燥した暑さだ。
ここで、最後の点呼があった。名前を呼ばれた人がパスポートと申請用紙を受け取ってゆく。後はオフィスが開いたときにそれを係官に渡せばいいだけなのだそうだ。
「色々とややこしいんですね」
私は言う。
「役所の手続きなんて、そんなものですよ」
彼はしれっと言った。「ここでパスポートを渡してしまえば、あとはホテルで朝食です。あんまり美味しくはないですけどね」
じりじりと気温が上がり、じりじりと待たされる。
「ビザランで一番面倒なのは、朝のダッシュだけです。あとはずっとこんな感じですよ」
彼が言う。
「私は、隣に健一朗さんがいてくれるなら」
「また冷やかされるので、やめてください」
私は肩を竦めた。
その時、やっと列が動き出した。