電脳マーメイド
34
バスは定刻より30分も遅れてやって来た。
彼によると、これは毎回のことらしい。乗り込んで自分の席を探す。私たちの席番は9番と10番だ。私が窓側の9番で彼が通路側の10番に座った。それでもバスはしばらくは動かず、ツアーガイドの二人が参加者の揃っているかを確認してようやく出発となった。
夕方の渋滞を抜けて高速道路に入ると、速度を上げて夕暮れのバンコクを走り出す。
車内はだいたい半分の座席が埋まっている状態で、皆それぞれに寛いでいる。
「このまま3時間ほど走ったら最初の休憩です」
彼は言った。
ほどなく夜になり、窓の外は真っ暗になった。道路沿いの町をいくつも抜けて、バスは快調に走る。
彼はもうビザ・ツアーの常連だ。いつもは端末で音楽を聴いていたりするが、今回は物珍し気に外を見る私に、あれこれと説明してくれる。バスにはWiFiも備わっており、私の端末でも動画を見ることが出来た。
彼の友人は4列ほど後ろにいる。バスに乗っている間、彼はその友人たちと会話することはなかった。
ぴったりと並んで座ると、彼のぬくもりが伝わってくる。車内の冷房は少し効きすぎ気味で、肌寒い。羽織るものを持つか長袖を着ていた方がいいという彼の助言通りだ。
「どんな曲を聴いているんですか?」
私は彼に訊ねる。
「聴いてみますか?」
彼はイヤホンの片方を私に寄こした。
彼が聴いていたのはタイの歌謡曲らしかった。哀し気な男声の歌だ。
「いい曲ですけど、どこか心を掻き乱されるような感じがします」
「そうですね。これは失恋の歌です。ずっと昔の恋を思い出し、後悔している」
「……」
私は黙るしかなかった。それは、余りにもいまの彼と重なっているように思われたからだ。私は心持ち体をずらし、彼との接触面を増やした。彼は避けるでもなく、私が身を寄せるままにしてくれた。
今は、これくらいしかしてあげられないし、それ以上を許してもくれないだろう。
私は同じ曲を彼と共有しつつ目を閉じた。
「眠れるなら、眠っておいた方がいいですよ。休憩になったら起こしてあげます」
「大丈夫です」
私は厭々をするように、そっと頭を振った。
こうして彼に寄り添いながら同じ曲を聴いていられるのが幸せ過ぎて、この時間がずっと続けばいいとさえ思った。
窓の外はすっかり郊外のそれになり、家々も少なくなっている。高速道路沿いにはガソリンスタンドが幾つもあり、そこだけが明るい。
彼は時おり時計を気にし、最初の休憩がそろそろだと私に告げた。実際、バスはそれから20分ほど経ってから、一件のガソリンスタンドに停まった。
ガイドの女性が15分休憩だと声を張り上げている。乗客たちはぞろぞろと降りてゆきコンビニに行く者、トイレに行く者、煙草を吸ったりとそれぞれに散ってゆく。
彼と私はトイレを済ませ、コンビニには寄らずに通り沿いの屋台でテイクアウトすることにした。そこにはガイドの一人が先に来ており、彼と二言三言話をして笑い合っている。
「彼女も、コンビニより作りたての方がいいと言ってるんですよ」
なるほど、でも時間がかかっている。休憩時間の15分では間に合いそうにない。
「大丈夫なんですか?」
心配になって私は訊ねた。
「最初の休憩はいつも30分近くあります。それに、ガイドさんもいるじゃないですか」
そのガイドは間もなく料理を受け取って、戻って行った。
私たちの分が出来たのは、それから10分以上経ってからだった。
その間、バスが行ってしまわないかと冷や冷やしていたが、実際に私たちが戻ってみると、まだ全員が揃ってもいなかった。
「随分といい加減なんですね」
「どうせ急いでも、同じことですからね」
料理のパックを空けながら、彼は言った。私たちはここでは同じもの、海鮮チャーハンを頼んでいた。
車内には様々な料理の匂いが充満している。少し遅めの夕食タイムということだ。
ガイドが外で何か言っている。まだ煙草を吸っている人たちに向かって、急ぐよう呼びかけているようだった。
チャーハンは具だくさんで美味しい。いつもの店とは味付けも違って新鮮だった。
急かされている人たちが乗り込んできて、ようやくバスが動き出す。
皆が食事を終えた頃を見計らって、車内の照明が落とされた。時間はまだ9時過ぎだ。寝るにはまだ早いが、国境の町ノンカイに着くのは未明だ。もうすでに眠る態勢を取っている人たちもちらほらいる。
彼と私は、さきほどと同じように、曲をシェアしていた。
夜も遅い時間にもかかわらず、国道沿いのマーケットは煌々と明かりを灯し、人々で賑わっていた。そんな中を、バスは軽快に駆け抜けてゆく。車内では既に寝息を立てている人さえいるが、彼はまだ目覚めたままだった。
「寝られるときに、寝ておいた方がいいですよ」
「はい。でも、何だか興奮しちゃって」
「そうですね。私も最初はそうでした」
そう言って、彼はイヤホンを外した。「私は少し寝ますよ」
「はい」
彼は目を閉じてしまった。