電脳マーメイド
32
彼が何も言わないのをいいことに、私は彼の部屋に入り浸ることになった。
前にお寺巡りをした晩、こっそりと彼のベッドで寝てしまってからは部屋に戻るようしつこいくらいに言われるようになったが、それくらいのものだ。
彼の一挙手一投足が私にはとても大切なもののように思えた。
毎朝彼と食べに出かけ、夕食を共にした。そしてやがて巡り来るビザランの日。
今日はその前日だ。
いつものように夕食を買ってきて、部屋で夕食を共にする。
「明日の準備は出来ましたか?」
彼が訊く。
「はい。どうせ着替えしかないですから」
「パスポートと、それのコピー、領収書は?」
「はい。一まとめにしてあります」
「まあ、出かけるのは明日なので、もう一度点検しましょう」
彼は言った。「あ。走りやすい靴はありますか?」
「え? 走るんですか?」
「国境のイミグレーションが開くとき、早い者勝ちなんです」
「私、運動は苦手です」
「運動靴でも充分なんですが、ありますか?」
「あの、ここに来た時に履いていたのは?」
「バスケットシューズですね。それならいいです」
「なんだか大変そうですね」
「まあ、最初だけです」
「健一朗さんは、もう何度も行かれてるんですよね」
「ええ。仕事が見つかればビジネスビザがもらえるんですけどね」
「じゃあ、あなたにくっついてたら安心ですね」
そう言いながら、私はわざと彼の腕を取った。
「やめてください。そんなにくっつかれては――」
「くっつかれては、何?」
「困ります」
「冗談ですよ」
私は彼の腕を放した。
「|質《たち》の悪い冗談ですね。今度やったら追放しますよ」
「ごめんなさい。私、ちょっと酔っちゃってるから」
「もう、禁酒にしますよ」
「嫌ですよ。お酒を飲むのは私の自由」
「絡み酒か、参ったな……」
彼は頭を掻いた。
「べつに、絡んでるわけじゃないんですよ。だって、最初から言ってたじゃないですか」
「少し、黙っててください」
彼がコンピュータに向き直る。
「嫌、こっちを見てください」
「邪魔をしないって約束でしょう?」
「邪魔をするつもりはありません」
私は言った。「私はただ……」
「もう、いいです」
「もっと、あなたの近くにいたいだけなんです」
「……」
「ダメですか?」
「……エレノアさん?」
彼が落ち着きを取り戻して言う。「あなたと私は親と子ほども歳が離れているんですよ。エディプスコンプレックスでもあるまいし」
「恋愛に歳の差なんて関係ない。健一朗さんだって、そう書いているじゃないですか」
「それは、あくまでもお話の中です」
「そうやって、健一朗さんはいつも自分の中に閉じこもってしまうんですね」
「閉じこもっているわけじゃありません。完結してしまってるんです」
「私が、その殻を破ってあげます」
「育ち切っていない卵を無理に割るのは、雛を殺してしまうことになりますよ」
「あなたは雛じゃありません」
彼は大きく息をついた。
「一人で、寂しくはないんですか?」
続けて私は言う。
「そりゃあ、たまには寂しくもなりますよ」
「私が来る前と今とで、何か変わりましたか?」
彼はしばらく考える。
「忙しくなりましたね」
「それは、嫌なことですか?」
「……」
「ちゃんと答えてください」
「嫌ではないです。本気で嫌なら、とっくに追い返してます」
「そうですよね」
「だからって、あなたを好きとは限らないでしょう?」
「好きにさせて見せますよ」
「人を実験台にするのは、よろしくないですよ」
「分かっています。大好きな人を相手に実験なんて出来ません。それこそあなたが言うように追い出されかねないのですから」
「そこまで分かっているのなら、無茶は言わないでください」
「でも、言わずにはいられない時だって、あります」
「もし、私がエレノアさんに恋愛感情を持ったら、恋愛ものは書けなくなってしまう」
「どうしてですか?」
「中庸でいられなくなるからです」
「健一朗さんが書くものは、恋愛だけじゃないでしょう」
「もう、この話はやめましょう」
彼は言って、ビールを呷った。
「すみません。つい興奮してしまいました」
「構いませんよ。私は、いまは物語に没頭していたいだけなんです」
「はい」
そう、彼は女嫌いなんだ。昔、手ひどい失恋を経験して以来、彼は女性を信用できなくなっている。性急に迫ってもはねつけられてしまうのは当然だった。
明日からビザラン。環境が変われば少しは新しい展開が望めるのだろうかと、私はささやかな望みをかけた。