電脳マーメイド
30
昼食を終え、お腹も口も充分に満足した。
薄暗い木造の船着き場に入る。二人分の料金を支払い浮桟橋に出ると、広いチャオプラヤー河が見渡せた。河の水は決して綺麗とは言えないけれど、解放感があって気持ちいい。ちょうど対岸にこれから向かう船着き場が見え、その左手に聳えるのがワット・アルンというお寺なんだそうだ。
「ワット・アルンとは、朝の寺という意味なんですよ。ちなみに、タイ語の『おはよう』は、アルン・サワットです」
河には多くの船が往来している。その中を縫うように小さな船がこちらへと向かって来た。
|艀《はしけ》に屋根をつけたような船が着岸する。船の往来の多い河は波もあり、船も少し揺れている。下船客が終わると何の合図もなしに乗船客が乗り込む。中にはバイクを押して乗ってくる現地の人もいた。渡し船は大河を抱く都市の交通の一翼を担っているのがよく分かる光景だ。
渡船には時刻表はあるのかどうだかも分からない。ある程度乗客を乗せると対岸へ向けて動き出した。
大河を渡る短い船旅は爽快だ。大小形も様々な船が行き交っている。対岸まで5分か10分程度だが、開放的な船旅となった。ワット・アルンの他にも、お寺があるのが見える。
船着き場に到着すると、浮桟橋を歩いて陸に上がる。すぐ左手がお寺の入り口だった。門をくぐると芝生の拡がる公園になっていた。
「せっかくだから、記念に写真を撮ってあげましょうか」
彼が言う。
「そうですね。一緒に――」
「一緒にですか? それは――」
そう、彼は大の写真嫌いなのだ。
「いいでしょう? 一枚だけ、お願いします」
彼は苦笑しながらも承諾してくれた。
公園内を散策していた人に声をかけ、二人並んで写真を撮ってもらう。他の人から見たら、自分たちはカップルというよりは父娘と思われてしまうだろう。
写真を撮ってくれた人にお礼を言い、さっそく写真を見る。彼は照れくさがって、見ようともしない。
「これ、宝物にしますね」
「しなくていいです」
私の言葉に、彼は即答した。
「後で、送りますね」
「要りません。私は自分の写真を見るのが大嫌いなんですよ」
「じゃあ、私一人の写真なら?」
「そういう質問はナンセンスです」
「どうして?
「どうしてもです」
そんなやり取りを交わしながら芝生の広場を過ぎ、お寺の入り口に向かう。
有名なお寺だというのに、入り口は至って質素だった。ここでも拝観料を払って境内に入る。
ワット・ポーのそれよりも巨大な仏塔が空に聳えているのが圧巻だ。そして、途中までは登ることも可能だった。
「塔を背景に写真を撮ってください」
私は端末を手渡す。
彼は自分の写真を撮られるのは嫌いなのだが、撮る方は大好きなのだ。案の定彼は乗り気になって、私の様々なポーズを写真に収めてくれた。
後になって、全部送ってあげるんだからね――
そうやって戯れているうちに陽が傾き始める。巨大な塔の東側は既に陰の中に沈んでいた。
ワット・アルンには、ワット・ポーのようなきらびやかさはない。名残惜しくはあるが、渡し場へと引き返した。
もうそろそろ夕方のラッシュ・アワーが始まる時刻だった。バスでの移動を避け地下鉄の駅までタクシーで行くことにした。
彼が渡し場の前で客待ちしているタクシーに行き先を告げると、即座に彼は要らないと言ってドアを閉めた。
「フアランポーンまで200バーツとか言うんですよ。観光地のタクシーはどこも同じですね。ぼったくることしか考えていない」
そして私に向き直る。「少し歩いて、流しのタクシーを捕まえましょう」
タクシーはすぐに捕まった。彼が「メーター」と言うと、運転士は「ダイ、ダイ」と気やすく応じてくれた。フアランポーンは国鉄のバンコク中央駅だが、地下鉄乗換駅でもある。少しだけ渋滞にひっかかったものの。運賃は56バーツだった。
そこから私たちは地下鉄で帰った。