電脳マーメイド
26
夕方、彼と私は夕食の買い出しに出かけた。
昨日行った屋台ではなく、少し遠出をした。そこには銀行の前に幾つもの屋台があった。串焼きの店でイカや野菜のバーベキューを頼み、焼き上がるまでの間に他の屋台でトムヤムクンを買った。これは、彼が本格的に飲みたい時のパターンだ。私はトムヤムクンは食べたことがない。でも彼の好物だから、絶対に美味しいに決まっている。
帰り際、彼はさらに焼き鳥を買った。
彼の部屋に戻って買ってきたものを並べようとすると、テーブルがいっぱいになってしまった。何とか工夫して二人分のグラスを置けるスペースを作る。
そして乾杯。
串焼きはピリ辛のソースが付いている。結構辛いのに、彼は美味しそうに食べている。辛いのは確かだけど、甘さもある。このタイの暑さでは、少しくらいスパイシーでないと食欲が湧かないのだと彼は言っていた。
それに、ビールにとても合う。お酒に馴染みのない私でさえ、ついついビールに手が伸びる。
「健一朗さんは、本当にタイが好きなんですね」
私は言う。
「ええ。大好きですよ」
「自分の生まれた国より?」
「もちろんです。エレノアさんは、この国をどう思います?」
「どうって……」
私は逡巡する。「まだ2、3日いるだけなので」
「今の印象でいいですよ。そう難しく考えなくても」
「そうですね……」
私は考える。「美味しい国」
それを聞いて、彼は笑った。
「正直な感想ですね。私の第一印象も、そうでした」
「もう、何食べても美味しくて感激です」
「そうそう。そうなんですよ」
「こんな美味しいものを毎日食べられるなんて、幸せですよね」
「本当に、そう思います」
彼は二本目のビールの栓を抜く。「ついつい飲み過ぎてしまいますけど」
「いいんじゃないでしょうか。その分、いい作品が書けるのなら」
「正直言って、私にあなたのような熱烈な読者がいるなんて思いもしませんでした」
「健一朗さんの小説は素晴らしいです。でも、まるで神隠しにでもあったように、覆い隠されてしまってるんですよね。一度あなたの作品を読めば、その魅力に気づくはずなんです」
「そうまで言ってもらえると、嬉しい限りです」
彼の言うとおり、タイ料理にはビールが合う。私は手酌でグラスにビールを注ぐ。
「あまり飲み過ぎないようにしてくださいよ。無理につきあわなくたっていいんですからね」
「はい。なんだか嬉しくって」
「何がですか?」
「健一朗さんと時間を共有できることが」
「冗談はよしてください」
「冗談だと思います?」
「……」
「冗談で、ここまで追っかけてくると思います?」
そう、彼は現住所を明かしていない。バンコクに住んでいるということだけしか公表していないのだから。
「私は、あなたが好きなんです」
「それは、作家としての私でしょう? 私の小説からの、ただの連想じゃないですか」
「違います。今は、それを確信しています。もし、本気で私を追い返したいのなら、ここじゃなく他のホテルを紹介することも出来たはずです。それに、あなたは今も私がここにいることを許してくれています」
「困ったな……」
「何がですか?」
「私は、どうやってエレノアさんを説得するべきなのか」
「その必要はありません」
「どうして?」
「それは、私が今、ここにいるからです」
「……」
「健一朗さんは、私がここにいることが嫌ですか?」
「嫌とか、そんなことは思わないですよ」
「では、居て欲しいか、欲しくないかは?」
「……」
「どちらにせよ、私はあなたの傍にいられるなら、それだけでも幸せなんです」
「もし、駄目だと言ったら?」
「それなら、とっくに言っているはずです。そうじゃないですか?」
「全く……」
彼はビールを呷(あお)った。「困った人だ」
空になったグラスに、私はビールを注いだ。
「もっと困らせることも出来るんですよ」
「それなら、追い返すまでです」
二人して、不敵に笑った。