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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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電脳マーメイド

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25


 人混みの中を歩き回ったせいで、私はすっかり疲れてしまった。それは彼も同じだったろう。結局彼は何も買わなかった。場内の露店でそれぞれスムージーを買い、バスを待つ。
 このエリアはバンコク都内バスのターミナルにもなっていると彼は言った。実際に、ここを発着するリムジンバスも見かけた。
 私たちは行きの時と同じ系統のバスに乗った。
 バンコクでは地下鉄や高架鉄道(BTS)の構内や車内では飲食は禁止されているけれど、バスは構わないのだそうだ。だから、飲みかけのスムージーを持って乗っても何も言われない。
 帰りのバスの運転は上手だったが、どこかのバス停を出てすぐに停まってしまった。運転士が降りてしまい、ガソリンスタンドの方へ行ってしまう。
「どうしたんでしょう。故障ですか?」
 私は訊いた。
「トイレですよ。それか、買い物」
「トイレは仕方ないとしても、買い物って――」
「まあ、これが普通ですよ」
 確かに、バスの乗客は特に慌てているようでもない。十分ほどで運転士は戻ってきた。手には何か持っている。車掌にそれを渡して、バスは再び動き出した。
「ずいぶんと、のんびりなんですね」
「これもタイ人の気質ですよ。私はこういうところも好きです」
「みんな、分かってるんですね」
「そうです。それを知っていて乗ってるんですよ」
 マンションの最寄りバス停で降りるときも切符を回収されることはなかった。炎天下の道をマンションへと向かう。
「あの……」
 道すがら、私は訊ねる。「お部屋にお邪魔してもいいでしょうか」
「少し昼寝したい気分なのですが」
「じゃあ、私もシャワーを浴びて、のんびりします」
「それがいいです」
「行ってもよくなったら、連絡くれますか」
「いいでしょう。SNSで報せます」
「ありがとうございます」
 それで、私は三階でエレベーターを降りた。
 エレノアの身体は暑さに慣れているのか、私はさほど汗はかかなかったが、シャワーを浴びてすっきりした。頭にタオルを巻いたままでテレビの電源を入れる。彼はたどたどしいながらもタイ語を話すので、タイの番組にチャンネルを合わせた。
 ベッドに腰を下ろし、バラエティ番組を見る。正直、何を言っているのかさっぱり分からない。端末の中にいた時はデータを参照出来たけど、今はもう無理だ。
 エレノアの身体には時差の影響が残っているのか、私は座ったまま居眠りしそうになる。
 ま、いいか。彼も昼寝するって言ってたんだし――
 私はベッドに潜り込んだ。
 ほんの一時間ほど寝たつもりが二時間以上眠ってしまっていた。慌てて端末を確認すると、十五分ほど前に彼からのSNS通知が来ていた。
 私は急いで身支度を整えて部屋を出る。ふと思いついて一階まで行き、ミニマートで飲み物を買って彼の部屋に向かった。
 彼の部屋をノックすると、すぐにドアを開けてくれた。
「ごめんなさい。すっかり寝てしまってました」
 私は言った。
「べつに構いませんよ。ゆっくり休んで」
「あの、飲み物を買ってきたんですけど」
 私は今しがた買ってきたものを差し出す。
「それは助かります」
 私を部屋へと押すと、彼は鍵をかけた。このマンションのドアはにはラッチがないため、鍵をかけないと勝手に開いてしまう。
「良く寝られましたか」
 私は訊く。
「少し。今は快調です」
 彼は私が渡した7Upのペットボトルを空ける。「実は、7Upはペプシと同じくらい好きなんですよ」
「気に入ってもらえてよかったです」
 本当は、私はそれを知っていて買ってきたのだけど、彼はそう言った。
 私が買ってきたのは7Upとミリンダ。どちらも彼の好物。今日は7Upの気分だったみたい。
「今日は、ありがとうございました」
 私はお礼を言う。
「いいんですよ。私も、部屋に引きこもってばかりいては感性が鈍りますからね」
 私もミリンダの栓を抜いて飲む。爽快なオレンジ味だ。
 彼はもう、ディスプレイに向かっている。今日は調子がいいらしい。
 私は黙って彼の横顔を見る。
 たとえ触れることが出来なくとも、こうして間近にいることを許してもらえるだけでも幸せなんだ。だから私はきっと、幸せ者なんだ。
 そして、自分でも幸せだと思う。
 夕方まで彼と私は時々言葉を交わし、彼は小説を書き、私はそんな彼を身近に感じていた。
作品名:電脳マーメイド 作家名:泉絵師 遙夏