電脳マーメイド
24
土曜日、朝食を済ませた私たちは、一旦部屋へ戻って着替えを済ませてから外へ出た。
最寄りのバス停からバスに乗る。席に着くと車掌が細長いケースをじゃらじゃら言わせて私たちのところへ来た。彼が何か言い、お金を払うと、小さな紙片を渡して車掌は適当な席に腰を下ろした。
「これがバスの切符ですよ。珍しいでしょう」
彼がその紙片を私に見せる。「冷房のついていないバスは全線均一運賃なんです。渋滞を気にしないのなら地下鉄よりも格段に安いんですよ」
決して丁寧とは言えない運転で、出入り口のドアは全開になっている。そうして風を通しているのだろうが、面白くもある。てっきり手動のドアかと思いきや、実は自動ドアだと知った時は、少しびっくりした。
15分ほどバスに揺られ、チャトゥチャクという所で降りた。案内放送も何もないので端末で位置情報を見ながら適当なところで降車ボタンを押さなければならなかったが、彼はごく自然にそれをやってのけた。
歩道橋を渡るとそこは市場のようだった。
「チャトゥチャク・ウィークエンド・マーケットですよ。土日だけやってる有名な市場です」
彼が説明してくれる。
門を入ると通りの両側に出店が軒を連ねている。そのどれもが仮の食堂だと判って私は驚いた。
「すごいですね。全部食べ物屋さんじゃないですか」
「これくらいなければ、このマーケットにいる人の胃袋は満たせませんよ」
言いながら、彼は私を奥の方へと導く。「いちおうブロックは分けてあるんですけどね、何しろ広いですから迷子にならないようにしてください。もしはぐれたら、電話してください」
「はい」
「それと、何か欲しいものが見つかったら、迷わずに買うこと。後でいいと思っていると、二度と見つからないと覚悟しておいてください」
「はい……」
なんだかすごい所に来たなと、私は思った。
その彼の言葉が決して誇張ではないことを、私は間もなく知ることになる。
市場のブロックに入ると、狭い通路の両側に物を売るブースがひしめき合っていた。陶器を売るコーナー、金物を売るコーナーなどがあり、さらに進むと工芸品のコーナーなどがあった。人が辛うじてすれ違える程度の狭い通路にも商品が溢れていたりする。興味をそそられてよそ見していると、人にぶつかるか転倒するかしてしまいそうだ。
アロマグッズのコーナーで、私は足を止める。はぐれないように彼のシャツを掴んでいたので、彼も立ち止まった。
小瓶に入ったものから大きいもの、アロマキャンドルやお香などが並んでいる。
「健一朗さんが好きかと」
私はラベンダーの小瓶を手に取る。
「ええ、好きですよ。サンダルウッドやレモングラスも。心が落ち着きますからね」
「私はまだ嗅いだことがないので……」
「じゃあ――」
彼が店員を呼んで何か話す。
「さあ、手を出して」
言われるままに右手を差し出す。そこに店員が香油を少し垂らしてくれた。
途端に広がる甘やかな薫りにうっとりとする。
「今度は左」
サンダルウッドの香油が垂らされる。どこか深い森の中にいるような、腐葉土のような香りだった。
そして彼の左手の甲にはレモングラス。爽やかで透明な香りだった。
「ロウソクも、同じ香りなんでしょうか」
「たぶん同じでしょう。試したことはないですけどね」
「私、三つとも買います」
「ここの値段は値切る以前の問題だから、そのままでいいでしょう。あ、香炉もあった方がいいですか?」
「いえ、今は」
「分かりました」
彼は値切らないと言っていたのに、端数を値切ってしまった。引っ込み思案な彼の、意外な一面を見た気分だった。
その後、衣料品やアートのコーナーを巡り、いい加減に疲れてきたころに彼は食事に行こうと言ってくれた。
エビやイカなどの海産物を焼く屋台で注文し、焼きそばも頼んだ。時間がかかるものはテーブルまで運んでくれる。せっかくだから普段は食べられないものを食べようとの彼の提案だった。この市場の値段はピンキリで、安いものは本当に安い。かと思えば高級品も扱っていたりとただ見ているだけでも楽しい。もちろん食べ物もそうだ。ここの海鮮バーベキューは他の店のものよりも安いのだそうだ。
実際に新鮮な魚介類は驚くほどジューシーで美味しかった。私でさえついついビールが欲しくなってしまうほどに。
「健一朗さんは、何も買わないんですか?」
私を案内するばかりの彼に、私は訊ねた。
「欲しいものがあれば買いますよ。ただ、今は取り立てて必要なものもないですからね」
お腹を満たした後、私たちは再び迷路のような市場に入ってゆく。観葉植物や花を売る店、通路の中に突然現れる生ジュース屋、鞄屋、靴屋もあった。見ていて飽きないというよりも、飽きる以前に疲れてしまいそうだった。
人混みが嫌いな彼が、今日わざわざ私のためにここに来たことが分かった。何かお礼をしたいが、彼はそれを固辞するだろう。彼は私の喜ぶのを見て微笑んでくれる。
ああ、彼もこういう表情をするんだと、私はますます彼を好きになってしまった。