電脳マーメイド
21
もののほとんどない部屋は、エアコンの効きすぎだけではなく寒々としていた。
私はスーツケースから必要なものを出して、バスルームに入る。給湯器の使い方は教えてもらったので弱、中、強のダイアルを弱に設定する。
今日一日だけでも、彼との距離が随分と縮まった気がする。頭から暑いシャワーを浴びながら、そう思った。
充分に汗を流し、髪もしっかり洗ってバスルームを出る。そこで買い忘れていたものに気づいた。バスマットがないのだ。濡れた足のままスリッパを履くわけにもいかない。
裸足のまま椅子に座り、出来るだけ早く足が渇くようにする。その間に髪を乾かし、梳(と)かしつける。
髪がある程度乾いてから後ろに束ね、部屋を出た。
エレベーターで6階に上がり、彼の部屋をノックする。だが、返事がない。何度か試してみるも、応答はなかった。
来ていいって、言ってくれてたのに――
私は急にひとり放り出された気分になった。
「あれ? エレノアさん」
横から声をかけられ、私は驚く。部屋にいるとばかり思っていた彼が、私の横に立っていたからだ。
「すみません」
彼が謝りながら、鍵を開ける。「こんなに早く来るだなんて思っていなかったから」
彼の話によると、シャワーを浴びた後、外に串揚げの屋台が来ていたので買いに出たのだそうだ。このところの彼は、日中こそ飲まないけれど、夜は結構深酒している。
彼は色々と考え過ぎなんだ。もっと気楽にしていてもいいのに、彼を留めている枷(かせ)を取り払うためのアルコールの量は以前よりも増えている。このままでは良くないのは彼自身も分かっている。それを差し出がましく忠告できるほどの距離に、私はまだいない。だから、黙っているしかない。
私が戻るまでの間に、彼は既に二本目のボトルを空けていた。これでもペースは、いつもより少し遅いくらいだ。だったら、私がいることが彼の減酒に少しは役に立っているんだろうか。
串揚げの袋をテーブルに置いて、彼は言った。赤いソースがいかにも辛そうだ。
別のテーブルは、うっかりこぼしてパソコンを壊してしまわないためでもある。実に彼は、それで二台のパソコンをダメにしてしまっている。
彼は三本目のビールを飲みながらパソコンに向かっている。私は黙ってその横顔を見つめていた。
しばらく何かを考えていると思えば、数分間文字を打ち続ける。その繰り返しだ。その間手はビールのグラスに何度か伸び、串揚げを少しずつ食べている。
ふっと息をつき、彼は私の方を見た。
「エレノアさんは、退屈じゃないですか?」
「私ですか?」
私は言う。「退屈なんて、していませんよ」
「あなたは、もの好きな人だ」
「そう、かも知れませんね」
私は、空になったグラスを弄ぶ。「私、もう一杯もらってもいいですか?」
「それはいいですけど。大丈夫なんですか?」
「何だか、飲みたい気分なんです」
「そいつは、厄介だな」
彼は私のグラスにビールを注いでくれた。
「私は、健一朗さんがお仕事されているのを見るのが好きです」
「それは厄介ですね」
「どうしてですか?」
「作家業なんて、孤独との勝負なのですから」
「私がいては、邪魔ですか?」
「いいえ、そういう意味で言ったんじゃないんです。今夜はあまり調子が良くないというだけです」
「やっぱり、私のせいなんじゃ――」
「気にしないでください。書けないことを人のせいにするほど、私は落ちぶれてはいませんよ」
「だったら、いいんですけど……」
「せっかくだから、少し話し相手になってもらえると有難い」
「もちろん、喜んで」
「私は元来人嫌いでね」
「ええ」
「話し上手ではないのです」
「はい」
「だから、何を話せばいいのか……」
話し相手になって欲しいといいつつ、話下手だと言う彼が愛おしい。
彼は手持ち無沙汰にグラスを持ち、一口飲んだ。
「ああ、その串揚げ、食べて下さいよ。少し辛いですが」
「はい。じゃあ、一口だけ」
私は一本だけ抜いて、食べてみる。彼は少しだけと言ったが、私には辛すぎた。それを見て、彼は冷蔵庫から水のボトルを出した。
「やっぱり、辛過ぎましたか」
「ええ、思っていたより辛かったです」
「バンコクは暑いですからね。そういう辛いものが食欲をそそるのですよ」
「なるほど、そうなんですね」
水を飲んで人心地ついた私は言った。
「辛くても美味しいでしょう?」
「え、ええ。まだ舌がひりひりしてますけど」
それを聞いて、彼は笑った。「私も元は辛いのは苦手なんですけどね。どうしてだかタイ料理の辛いのだけは許せるのです」
それは、何となくわかる気がした。なぜなら、私ももっと食べたいと思ったから。
私もご相伴したから、途中でビールが足らなくなり、一階のミニマートで補充した。
結局お開きになったのは深夜0時を回ってからだった。彼がゴミ捨てがてら、私を部屋まで送ってくれた。
今は贅沢は言うまい。
私は大人しく自分の部屋の鍵を開けた。
「おやすみなさい」
「ゆっくり休んでください」
すぐにはドアを閉めず、去ってゆく彼の後姿を見送る。
ドアを閉めて空っぽの部屋を見て、私はほっと息を吐いた。