電脳マーメイド
20
そうなのだ。次々と移り変わる流行。過去から現在へ、そして潮流を見極めて未来を予測する。失敗すればすべてが無駄になるかも知れない流行予測のためだけに費やされる計算のいかに無駄であるかは私もよく知っている。
たぶん私のように意識を持つにいたった誰かの端末かコンピュータの愚痴だろう、それは投資家か何かの市場予測についてのものだった。
私はもう、そのネットワークから切り離されてしまっている。いわば人間としても端末としても異端児だ。私の意識がなくとも端末は機能する。ならば、私はいったい誰? 何のために生まれてきたの?
彼は書いている。人は、誰かを愛し、愛されるために生まれてくるのだと。そういう信念を持ちながら、愛されなかった彼の心の深傷(ふかで)をいったい誰が癒してあげられるんだろう。
彼が説明しているのを、私は上の空で聞いていた。
「後、何か分からないことはありますか?」
彼が訊いてきて、私は我に返った。
「いえ、特に」
「洗濯機は一階の外、駐車場の奥にあります。そろそろ夕飯の時間なので、ついでに見てゆきますか?」
「そうですね。お願いします」
渡してもらった鍵で部屋をロックし、エレベーターホールに向かう。
「このエレベーターですけど、月に一度くらい故障します。心配なら階段を使うのもいいでしょう。ここは三階だから、階段の方が早いこともあります」
とは言うもののエレベーターがすぐに来たので、それに乗り込んだ。
一階に降りる。ドア脇のボタンが玄関扉のロック解除用だと教えてもらう。逆に入るときにはカードキーを所定の機器にタッチするのだそうだ。
建物の一階部分のほとんどは駐車場だ。洗濯機のある場所は、ちょうど玄関口からは見えにくい位置にあった。一回40バーツで洗いから脱水までしてくれるということだった。
「そういえば、ハンガーを買うのを忘れてましたね」
彼が言う。「まあ、いいでしょう。洗濯日が重ならなければ、私のを使ってくれて構いません」
「ありがとうございます」
夜になると少しは気温が下がる。それでも湿度が高く、暑いことには変わりない。
大通り付近に幾つか屋台が出ていて、そのうちの一軒で彼は立ち止まった。
彼が適当に注文する。屋台の女性はてきぱきと調理し、さばくのも早い。焼きめしと、ガパオライスの二つで80バーツという破格値だった。
帰りにコンビニでビールを買い、マンションに戻った。
エレベータに乗ると、彼は7階のボタンだけを押した。
やった! まだ彼といられる――!
本当は、彼は寂しがりなのを知っている。強がってはいても、内心ではきっと寂しいに違いない。
だったら、ずっといてあげるのに――
そんなもどかしい思いを抱きつつ彼の部屋へと入った。
彼はいつも食事に使っている机の上を整理して、椅子を向かい合わせにセットした。
その上にグラスと買ってきたものを並べ、ビールを注ぐと、乾杯した。
「あなたの新しい生活に。そして、ようこそバンコクへ」
「健一朗さんの明るい未来に」
グラスを合わせる。
そうして、食事は始まった。
「一人で食べるより、二人の方がいいでしょう?」
私は訊く。
「まあ、そりゃあね」
「美味しさも幸せも分け合えるんですものね」
「幸せも、ですか」
彼が言う。「あなたは、幸せですか?」
「もちろん。あなたの近くにいられるだけで、私は幸せです」
「困ったな……」
彼が頭を掻く。
「どうして、困るんですか?」
「こういう状況に慣れていないので」
「慣れてもいいんですよ」
「そうでしょうか」
彼が懐疑的な言い方をする。「幸せであることに慣れてはいけないでしょう」
「あなたは、時々幸せを美化しすぎているきらいがあります」
「ま……。そうかも知れませんね。あなたは時々鋭いことを言いますね」
「お気に障りましたか?」
「いや」
彼は頭を振った。「むしろ、その方が有難い」
彼はおかずよりもご飯の方をよく食べる。理由は、残ったおかずをビールのおつまみ代わりにするからだ。
私は焼きめしをとうに平らげているが、彼の方はおかずが余っている。これからが彼の本格的な仕事タイムだ。日中は私につきあって外出していたせいで、今日は夜だけだ。
「お邪魔にならないようにするので、居させてもらってもいいですか?」
私は訊く。
「シャワーとか、いいんですか?」
言われて、私は体が汗でべとついていることに気がついた。
「シャワーを浴びた後、また来てもいいですか?」
「……」
少しの間考えた後、彼はそれを許してくれた。
「何かあったら連絡してください」
彼は一枚の紙片を差し出した。それには携帯電話の番号が書かれてあった。もちろん彼の電話番号は知っていたが、そうとは言えない。
私はそれを受け取って、自分の部屋へと向かった。