電脳マーメイド
19
さっき行った百貨店とは違い、ここには豪華さはほとんどなく、むしろ日常かその延長線上にあるスーパーマーケットのようだった。入ったところにはワゴンに載せられた商品が雑然と並べられていたり、相変わらずエントランス近辺には飲食店が多かったりした。やはりこの国の人たちは、食べるということに対してよほどの情熱を持っているらしいことが窺えた。
目指す店舗はそのさらに奥、別棟になっていた。スーパーとその向かいにあるホームセンター、さらには広場にある25バーツショップで日用品などを買い、帰途に就く頃には陽も結構傾いていた。荷物が多くなったので、帰りはタクシーを利用した。流している車を止め、彼が行き先を告げる。運転士がOKしたようで、彼は先に私に乗るように促した。ドアは手動なので彼が手を伸ばして閉めた。タクシー代は50バーツ。思ったよりも安かった。
マンションのレセプションで手続をしてもらう。システムが分からないので彼が代わりにやってくれた。現地語と英語の混ざったやりとりを、私はそれとなく眺める。どうもあてがわれた部屋は彼とは違う階になるらしい。説明は自分ですると彼が言って、ルームキーとエントランスのカードキーを受け取って、彼は私に向き直った。
「こっちに来て下さい。パスポートを出して」
言われるままに、バッグからパスポートを出して提示する。契約書についての説明の後、幾つかの書類にサインを求められた。部屋代の3か月分のデポジット、そしてオプションとして月二回のシーツ交換とWiFi契約。結構な出費にはなったが、少しでも彼の近くにいられるのなら、それも致し方ない。いきなりの同室を拒む気持ちもわかるから。健一朗は、そんな男性じゃない。だからこそ、彼はいつも孤独を強いられている。
「では、行きましょうか」
促されて、レセプション・カウンターを後にする。
部屋へと向かう途中で彼が色々と説明してくれる。契約書と共に渡された紙にも書かれている。デポジットは退出時に部屋の具合を勘案して返却されること、家賃と光熱費は請求書がドアの隙間から入れられてから5日以内に支払わないと延滞料がとられること、シーツ交換は事前に予約が必要等など。
「ここは安マンションですが、セキュリティもサービスもしっかりしています。何か不具合があればレセプションに言うか、時間外でも警備員に言えばお金が絡むこと以外は応じてくれます。例えば、電球の玉切れとか温水器の故障とかなら、すぐに対応してくれます」
「へえ、そうなんですか」
このことについては知っていた。だって彼がSNSで書いていたから。でも、彼も言っていたように、そんなに即応してくれるほどサービスのいい施設など本当に少ないのだということは、知識だけではあっても分かっていた。
部屋の広さは彼のものと同じくらいだった。一人で寝るには大きすぎるダブルベッドが寒々としている。彼の部屋との唯一の違いは、テレビがあることくらいだった。彼は主にコンピュータで動画を観るか、それで仕事をしているかだった。テレビもインターネット経由で見られるものを時々見ているだけだった。
「健一朗さん」
一通り話を聞いたあとで、私は声をかける。「どうしても、ここで寝ないといけないんでしょうか」
「それがベターな選択です」
「ベストではないんですよね」
「……」
彼が私を見つめ返す。
「あなたにとってベストな選択って、何なんですか?」
「分かっているのではないですか」
そう、分かっている。彼ならそう言うだろうことを。
「国に帰れってことですよね」
私は言った。「でも、じゃあ――健一朗さんはどうして自分の国に帰らないんですか?」
この言葉に、彼ははっとしたようだった。
「あなたは、国に帰らないし、帰れない。自分でそう決めたから。そうじゃないんですか?」
「エレノアさん、あなたと私は違います」
「どう違うんですか!」
知らず、声が高くなる。
「あなたは、まだ若い。何があったにせよ、やり直しは出来るでしょう。私のような人間に関わっていては、ろくなことにはならない」
「嫌です……」
「嫌?」
「あなたは物語を書いているんですよね? 人の心のありようを描き出しているんですよね? なのに、どうして私の気持ちを分かってくれないんですか」
「あなたにも、それなりの辛い経験があったのでしょう。ただね、私が言いたいのは、私の書く物語と私自身の人格は違うということなんですよ。一ファンとして慕ってくれるのは本当に有り難いのですが」
違う! 違うんだってば――!
私は健一朗の一ファンなんかじゃない。ずっと、ずっと、あなたにとってはそんなに長い時間じゃないのかも知れないけど、生まれてからずっと好きだったのよ。
でも、そんなこと言ったって信じてもらえないことも分かってる。彼はファンタジーを書くわりには至って真っ当な思考をもってる。だからこそ、現実とファンタジーの対比を書けるんだけど、そんなことは社会ではどうでもよくて、現実を一切無視して宙に浮いたファンタジーしか評価されない。
私は、彼の現実に向き合う姿勢が好きなんだ。彼の人生において、緊急避難を余儀なくされる事態が幾度あったか。それは彼がまだ公開していない著作に著されている。
でも、これは言っちゃいけないのよね。
私がライラだってこと。あなたの理想の女性、ライラだってことを。だから、あなたが気づいてくれるしかないのよ。
「確かに、私はあなたの作品しか読んでいないかも知れません」
私は自分の気持ちを抑えて言う。「でも、私はあなたのことをもっと知りたいんです。昨日の晩も、あなたは私に何もしませんでしたよね? 私と出逢ってからずっと、私のことばかり気遣ってくれてますよね? 作者と作品は別だとしても、あなたの場合はある程度以上に相似していると感じます。あなたは信用できる人です。だからこそ、あなたは私のために別の部屋をとったのではないですか」
「私はただ、あなたのような若い人が私みたいなのと一緒にいるべきではないと思ったまでです」
「べき? その、べきって何ですか? 好きに理由が必要なんですか? あなたも書いているじゃないですか。好きに理由はいらないって」
「あれは、あくまでも物語の――」
「違います!」
思わず、声を張り上げてしまう。「あれは、あなたの本心でしょう!? 他の全部を読んだら分かりますよ。健一朗さんが本当に愛について真っ直ぐだってことが。そして、忘れられない人がいることも」
彼がため息をつく。
「まさか、あの全てが私の実体験だと?」
「全てではないかも知れません。でも、少なくとも多くの部分は経験に基づいているのではないですか? でなければ、あんなにも身に摘まされるお話は書けないと思います」
「まあ……ね」
彼は渋い顔をする。
「私はね、あなたの作品に対する姿勢が好きなんです。もちろんお話も好きですよ。でも、それだけじゃなくて、そう――滲み出す人間性というか……」
「買いかぶり過ぎです」
「そうでしょうか。あんなお話は、考えの浅い人には決して書けないでしょうし、もっと楽な方法を選ぶんじゃないですか?」
「例えば?」
「簡単に人気が取れそうな流行ものとか」