電脳マーメイド
18
昼前になって、健一朗は私を百貨店に誘ってくれた。
それまでずっと彼の部屋にいたけど、特に何かを話すこともなかった。邪魔にはなりたくないし、無暗にこっちから話しかけるのも躊躇われたから。
昼の陽射しが容赦なく照りつけ、舗装された路面まで眩しくて見ていられないほど。それに、太陽はほとんど真上で、日陰もない道を歩く。
私は、彼が暑がりなのを知っている。それでもこの街の暑さにも幾らか慣れ、私よりは涼し気な顔をしている。
この暑さでは、彼があまり日中に外出したくないというのも理解できる。
百貨店に入ると、そこは天国のような涼しさだった。彼は1階の銀行が並んだ一角に私を連れてゆく。ATMでもカード出金はできるらしいけど、わざわざ窓口へ。レートを確認するためだと、彼は説明してくれた。銀行によって交換レートが微妙に違うのが分かった。
一番レートのいい銀行で現金の方を両替し、昨日ひとりで来たフードコートへ上がった。金券カードを買って、色々な料理のブースを見てゆく。昨日は気もそぞろで、あまりゆっくり見ていられなかったけど、こうしてふたりでだと、とても落ち着いた。
「ちょっとした日本料理とかもありますけど、何が食べたいです?」
「私は特に。よく分からないので。お薦めとか、ありますか?」
どれも食べたことのないものばかりで、選びようがないというのが正直なところ。
「朝みたいな感じで、いいですか」
「はい」
こうして、朝のようにトレイの並んだブースで、ご飯の上におかず二品ずつでオーダーした。金券カードで会計を済ませ、カードとレシートを受け取る。適当なテーブルに荷物を置くと、彼は一旦席を離れ、ペットボトルの水を持って来てくれた。
「タイのフードコートのシステムは一様じゃなくてね」
「そうなんですか」
「水が無料だったり、給水機だったり、会計システムとかも違ったり」
「私も、分からなくて」
「でしょうね。さあ、食べましょうか。この後、買い物もありますからね」
この国の人は、とにかく食べることが大好きなのだと彼は言っていた。早めの昼食を摂る人たちが後から後からやって来て、フロアの半分ほどはあろうかと思われる広い飲食スペースは満席に近かった。あちこちのテーブルで様々な種類の料理を食べている人たちがいる。どれもこれも美味しそうだけど、私の食べているものも申し分なく美味しい。ここでは、朝にやったように、おかずをシェアして食べるのが普通のようだ。
「日本でも、こういう食べ方をするんですか?」
私は訊いてみた。
「いえ。あまり、しないですね。よほどのことがない限りは」
「でも、シェアして食べるのって、楽しいです」
「ええ。私もそう思います。それも、私がこの国が好きな理由の一つです」
「私も、好きになりそうです」
それに、彼は笑顔で応じてくれた。そのことに嬉しくなって、私にはさっきよりもずっと食事が美味しく感じられた。
ああ、人間って、こんなことで幸せを感じられるんだ――
昼食後百貨店の外に出て、彼が訊く。
「スーパーまでは地下鉄で一駅だけど、電車で行きますか? それともバスに乗りますか?」
私は少し考える。
「ご迷惑でなければ、歩きたいです」
真上から照りつける陽射しの暑さは耐えがたいほどだけど、それでも大通り沿いには色んなお店もあって、それらを見てみたくなったから。
「じゃあ、歩きましょうか。せいぜい10分くらいですから」
彼と並んで並木道を歩く。こういうところは、私は知らない。だって、外では必要以外では端末の電源を切っていたから。
薬屋、雑貨屋、金物屋なんかが並んでいる中に、ローカルな食堂があったりする。どの店も素朴で、店の人ものんびりしている。暑いせいか、道を行く人の姿は少ないけれど、街自体は気怠さの中にも、人が生きているということが感じられた。これは、私が彼以外のことで感じた、人間の素晴らしさの一つなのかも知れない。
「そんなに、珍しいですか」
あちこち見回している私に、彼が言う。
「え、ええ。なんだか、すごいなって」
「すごい?」
「そう、みんな生きてるんだなって」
それに、彼は笑った。
「私、何か変なこと、言いました?」
「そうじゃないですよ。私も、ここへ来て、そう思いましたから」
「ですよね」
私は笑う。
「エレノアさん?」
彼が、真っ直ぐに見つめてくれる。
「はい」
「あなたも、それなりに苦労をして来たのですね」
「……」
これには、私は答えられなかった。だって、私は生まれたばっかりなんだから。意識としてはあったけれど、肉体をもった存在としては、赤ちゃんみたいなものなのだから。
でもね……
私は、ライラなのよ――
あなただけのライラなのよ――!
私の――私の苦悩って何――?
私の記憶の最初から、あなたはいた。あなただけだった。気づいたら、あなたがいた。それが全て。なのに、胸の裡を鷲掴みにされたような、この苦しさは何?
これは、エレノアの身体。喪われたはずのエレノアの記憶の断片が、まだ残っていて、それに反応しているってこと? 彼女はもういないはずなのに?
「大丈夫ですか?」
よほど深刻な顔をしていたのだろう、彼が私を覗き込んでくる。それに、私は歩道の真ん中に立ち止まってしまっていた。これでは心配されても仕方ない。
「え、ええ。大丈夫です」
目指すショッピングモールの看板が見えている。「少し――」
「無理しなくてもいいですよ。私はつい余計なことを言ってしまうことが多いのです。気を悪くしたのなら、申し訳ないです」
「あなたのせいじゃないです。ご心配かけてすみません」
どこからともなく、いやそれは紛れもなく自分自身の内から無色透明な染みのように湧き上がってくる思いを振り切るように、私は歩き出した。
「気分が悪いのなら、明日にでも――」
「どうか、気にしないでください」
彼が言うのを遮る。いくらか剣のある声音になっていた。「ご、ごめんなさい」
「あなたがいいと言うのなら」
そうして、私たちはショッピングセンターに着いたのだった。