電脳マーメイド
15
「そう言えば、おなかが空きませんか?」
コーヒーを飲み終えてしばらく経ったころ、彼が言った。
私はベランダの簡易キッチンで食器類を洗っているところだった。
これだけは、少し溜めすぎだと思える状態だったから。べつに流しに溢れかえっているわけではないし、山積みになっているのでもない。
彼はある程度まとめて洗うのが通常だから。ひょっとしたら昨夜に洗うつもりだったのに、私が邪魔したのが原因かもしれなかった。
だから、彼が自分でするというのを押し切って、私が食器洗いをしていた。
「ええ、すこし」
手を休めて、私は言う。
「じゃあ、食べに行きましょう」
洗い物を手早く済ませ、私は部屋に入る。
彼が棚の上の財布を取る。
私もバッグを手にした。
「いつも、仰ってる食堂ですか?」
私は訊く。
「ローカルですけどね」
「美味しいと、書いてましたよね。楽しみです」
私は言いながら、自分の財布の中を確認する。
「ああ、私が出しますよ」
彼が鷹揚に手を振る。
「それはダメです」
「これくらい、どうってことないですから」
「あなたはもっと、お金を大事にするべきです。特に今は」
「いや、それとこれとは――」
「私が払います」
「いけません」
にらみ合い。
こればっかりは、譲ってくれそうになかった。
彼はお金の貸し借りとかには厳しい。
それならば――
「じゃあ、朝ご飯は私が作ります」
確か、冷蔵庫にパンと卵があったはず。
「どうして、そうなるんですか?」
「お腹が空いてるから」
「だったら――」
「それも駄目なら、私、何も食べません」
やれやれというように、彼は目を窓の外に向ける。
「どうします? 私はどれでもいいですよ」
私は畳みかける。
「もう、分かりましたよ」
彼は折れてくれた。
そりゃ、おなかが空いてるのに何も食べないって言ったら、そうなるに決まっている。
私は髪を軽く直し、彼と共に外へ出た。
朝なのに、すでに陽射しは刺すように暑い。
私たちは出来るだけ日陰を選んで大通り手前の食堂へ向かう。
写真でしか見たことのない料理の入ったトレイが、ガラスケースに並んでいる。
どれも美味しそうで、全部食べたくなるくらい。
「辛いのは大丈夫ですか?」
「え……ああ、その……」
私は、味に関してはよく分からない。
辛いとは言っていたけど、それが実際にどんな感じなのか。
汗だくになるほど辛いのもあるって、言っていたはず。
「上の段のは、そんなに辛くないです。あと、これとこれは――」
説明してくれる。
「すみません、適当でいいです」
たぶん全部美味しいだろうから、選択を任せる。
彼が二人分の注文をし、突き出されたお皿を持って適当な席に座る。
向かい合わせに座ろうとした私を、隣に来るようにと誘ってくれる。
店の人が氷の入ったアルミカップと、よく分からない草や木の葉みたいなのを盛った大皿を私たちの前に置いた。
「まあ、試してみてください」
彼が、自分の皿からおかずを少しずつ分けてくれる。
もう、今日は幾つ幸せなことがあるんだろう。
でも、彼が私を隣に座らせた理由はすぐに判明した。
朝の食堂は混雑する。
出来るだけ詰め合って座れということだったんだ。
ううん、それだけ――?
他のテーブルでも、連れ同士は並んで座っている。それは、私の隣に見ず知らずの人を座らせないようにということもあったんだろうか。
そうだったら、またいいことが増えてしまう。
ああ、どうしよう――
料理も美味しいし、思わず笑ってしまいそう。
それよりも何よりも、すぐ隣に彼がいて、一緒にご飯を食べられるのが嬉しすぎて。
あれ――?
なんか、涙が出て来ちゃったよ。
そうなんだ。
なんでだろ?
そうか――
これが、嬉し涙なんだ。