電脳マーメイド
10
「それで、あなたはなぜ、そんなにまでしてライラにこだわるんですか?」
彼が言う。
「だって、それがあなたの理想の人なんでしょう?」
「理想の人ねえ……」
彼が、考える目をする。「二次元逃避と言うのかな。彼女はロボットだし、人間じゃないし」
「そうですね……」
彼がライラと言っている人物。
それはあるアニメのキャラクターで、ロボット。
人間じゃない。
でも、昨今のオタクと言われる人たちのような雰囲気は彼からは感じられないし、部屋はむしろ人が住むにしては殺風景に過ぎるくらいに物も飾り気もない。
それは、彼が死んだときに、あまり多くのものを遺して迷惑をかけたくないから。そんな哀しいことも、私は知っている。
彼はただ、彼自身を一途に想ってくれる人、自分の想いの全てを受け止めてくれる人を望んでいるだけ。でも、そんな人がいないから、ロボットに思いをかけている。
そういう私も、ロボットみたいなものだったのだけど。
ロボットは裏切らない。
そして、彼も裏切らない。
でも、今の私は生身の人間。
ライラではあっても、生身のエレノアの身体。
彼女が棄てた身体。そして存在。
「あなたは、何があってもあなた自身からは逃げられないんですよ」
彼が言う。
それは彼のお話の中で何度も繰り返されてきたテーマ。逃げてばかりでは、お話は進まない。
「他の何からも逃げられても、ですよね」
彼が寂しげに微笑する。
「あなたが、私のお話をよく読んでくれているのが分かります」
「ありがとうございます」
「お礼を言うのは、こちらですよ」
「私は――」
「あなたが幾らご自身を棄てようとしても、それは出来ません。あなたはあなた以下にも以上にもなれないんです。あなたが、あなたでいることが重要なんですよ。それは私も自作の中で繰り返し言っていることです」
「そうですよね……」
私は、ライラにはなれない。
彼のライラには戻れない。
彼が見ているのはエレノア。
それは、彼が幻想を描きながらもそこには現実を見ているから。
現実に幻想を潜ませるのは物語の中だけ。
他人に自分の幻想を押し付けたりはしない。
私は炭酸飲料を一口飲む。
口腔から喉へ、鼻腔を通って涙が押し出されるように目頭が熱くなる。
彼はいま、私を見ていない。
エレノアも、ライラも。
コンピュータのワープロ画面に向き直り、何かを考えている。
「私、お邪魔ですよね?」
私は言う。
「邪魔というわけではないです。ただ――」
「ええ」
「お疲れでしょう。無理に付き合わなくていいです」
「すこし……」
「先に|寝《やす》んでていいですよ。私は夜は遅いので」
そう、彼は夜の方が調子がいい。
筆が乗っているときは、明け方まで執筆している。
彼がベッドの上のものを片付けてくれる。
一人で寝るには大きすぎるクイーンサイズ。
枕は二つ用意されている。
彼はいつも一人で寝て、もう一つの枕は使われないままだった。
「奥の方が新しいです。すこし埃っぽいかもしれないですが」
布団をはたいて、軽くシーツを伸ばし、彼が言う。
「ありがとうございます」
私はベッドの隅に腰を下ろす。
そして、彼を見つめる。
彼はこのところ、ずっと不調だった。
これだけ頑張っても、いっこうに認めてもらえないから。
他の全てでも認めてもらえなくて、これが最後の希望なのに、それさえも拒絶され続けているから。
彼は孤独と闘っている。
私はそんな彼のために、ここに来た。
だから――
「見ていても、いいですか?」
今はまだ、ここにいさせてもらえるだけでいい。
邪魔をせず、ただ見つめていられるだけで。