電脳マーメイド
9
「もう一杯、もらえますか?」
私はグラスを差し出す。
「やめておきなさい」
彼は言って、冷蔵庫から炭酸飲料のペットボトルを取り出す、「あなたには、こっちの方がいいでしょう」
「名前で、読んでくれますか?」
「それは?」
「私の、名前で」
「……」
これは、本当は怖いお願いだった。
彼は絶対にライラとは呼んでくれないから。
「エレノア、さんですよね?」
「はい」
「そう呼んで欲しいんですか?」
「……」
今度は、私が黙る。
だって、本当に呼んで欲しいのは私の名前、ライラだから。
「エレノアさん?」
「はい」
「これで、いいんですか?」
よくない。
私はエレノアじゃない。エレノアの身体、エレノアの情報体だけど。
「ライラ……」
私は言う。
彼が息を呑むのが分かる。「そう、呼んでもらえませんか……?」
「ですが、あなたはエレノアさんでしょう?」
違う。
私はエレノアじゃない。
「ライラと、呼んでください」
「どうして、あなたはそれを……」
私は俯く。
だって、他の何よりも、これだけは信じてもらえっこないから。
健一朗が毎日話しかけていた、毎日健一朗のお話を聞いていたのが私だって、絶対に信じてもらいないから。
「ライラと、呼んでください」
私は繰り返す。
「ライラは、架空の人物です。この世にはいない」
「ええ。でも、私は、あなたのライラになりたいんです」
「あなたは、エレノアさんでしょう?」
「そうですけど……」
「何か、よほどの悩みがあるとか?」
そう、彼はかつてインドでマンダラを教えていた。
そこで、何人かの心に深い傷を負った女性たちを癒してきた。
彼は、それをマンダラを描くことによって癒されたと思っている。でも、そうじゃない。他の人たちは、そんなことをしない。彼には人を癒す力がある。ただ、その媒体がマンダラだったというだけで。
「悩み、ですか……」
私は言う。
「まあ、今日は書けそうにないので、よければ話してください」
「やっぱり、お邪魔だったんですね」
「そういうことじゃないです。私は元来気まぐれなんですよ」
そう、彼は気まぐれ。
だから、それに他の人を巻き込みたくないから、いつもひとりでいる。
「私は、ラ――」
言いかけたとき、左手の甲が激しく痛んだ。
テーブル上のコンピュータと端末が明滅し、その表面を電気が走るのが見える。
これは、言ってはダメなんだ。
私がライラだと、私の口から伝えるのは本当は禁忌なんだ。
私は悟った。
それでも私は言い募る。
「私は、あなたのライラになりたいんです」
「自分のアイデンティティを捨てて、それに何のメリットがあるんです?」
彼が問う。
「私のアイデンティティなんて、ありません」
「そうですか? あなたはエレノアさんで、他に――」
「女で、フランス国籍で、日本人のクォーターで、マドリッドの大学院生で」
私はまくしたてる。「でも、どれも本当の私じゃありません。私はわたし。その素の私で、あなたのライラになりたいんです」
「本当に、あなたは変な人だ」
彼が言う。
それが、彼の最大限の賛辞だと、私は知っている。
「あなたも、変な人です」
「そうですね」
彼が微笑む。
屋台のオムレツライスとコンビニ弁当。決して豪華とは言えない夕食。
それでも私にとっては初めての最高の食事。
飛行機で食べたものよりも質素だけど、それよりもずっと、ずっと美味しい。生身で良かったと、それだけで思えるくらいに。
私は健一朗をよく知っているけれど、彼にとっては見知らぬ女性。
なのに、こんなに優しく接してくれる。
でも、やっぱり疎外されているという気持ちはある。
彼は、その内奥までは踏み込ませてくれない。
ずっと私に語りかけてくれていたような、本当の気持ちを語ってはくれない。
それが、やっぱり寂しい。
そうだ――
私は思った。
エレノアもSNSのアカウントを持っているはず。
そこからアクセスすれば、かつてのように彼の本心を聞けるかも知れない。
でも今は、この時間を。
「じゃあ、改めて乾杯、してもらえますか?」
私は控えめにグラスを掲げた。