電脳マーメイド
エピローグ1. エレノア
今日も朝から暑い。
もっともバンコクは年中暑いのだけれど。
彼は今、ベランダで煙草を吸っている。
あの日、私が意識を取り戻した時、彼の顔が間近にあった。
強く握られた手の感触は、意識が目覚めるまでの間中、感じていたものだった。
言わば、彼は命の恩人みたいなものだった。
私は確かに自殺をしたつもりだった。あのジブラルタルの波濤に身を投げたはずだった。
でも、気づいたら私の前には彼がいた。
|三潴《みずま》健一朗。
どうして私がヨーロッパから遠く離れたアジアにいるのかの説明は、全くつかない。彼もそれは黙して語らない。彼がここまで連れて来たのかと、こっそり彼のパスポートを見たりもしたがスペインへの入国記録はなかった。代わりに、私のパスポートにラオスの出入国記録があった。
意識を失っている間に何が起ったのかは、実のところ彼にも分からないらしかった。ただその間、私はごく普通に生活していたらしいことだけは確かなことだった。
私が目覚めた時、彼は私をライラと呼んだ。私がエレノアだと名乗ると、彼は酷く混乱した表情をした。
人は、あまりにもショッキングな事実に直面すると、別人格が表に出ることがあるという。つまり、彼は私をライラだと思い込んでいたのだ。もちろん私はそんな女性は知らない。
私はエレノアだと名乗る以外にはなかった。だって、パスポートの名義もエレノアなのだから。
あれから一か月。私は彼との同棲生活を続けている。彼が私の命の恩人だからというだけではない。彼の優しさが本物だということが分かったから。
私が意識を失っていた数か月の間に、彼は私をとても大切に扱ってくれていたのはよく分かった。
そろそろビザの延長にイミグレーションへ行かなければならないのだが、彼は一旦国に帰ることを勧めてくれた。でも私は、彼の傍にいることを選んだ。故国には、もう未練も何もない。この国で彼と共に新しい人生を始めることを、私は選んだ。
私を彼と引き合わせてくれたライラには、感謝しなければならない。
だが、彼女はもうどこかへ行ってしまった。
「ケンイチロー」
私は、彼の名を呼ぶ。
「どうしました、エレノア?」
「ううん、呼んでみただけ」
彼は微笑んで肩を竦めた。