黄昏クラブ
5
「あら」
窓辺に気怠そうに身を持たせかけていた少女が振り向く。
「あなたは……」
「お久しぶりね」
彼女はあいまいな微笑を浮かべて言った。
「えっと……」
「なあに?」
「ここって、小さな女の子っているの?」
その問いに、彼女はあたかも不思議なものを見るような目で私を見た。
「手鞠唄」
私は言った。
「鞠と殿様」
「へ?」
「てんてん、てんまり、てんてまり……」
彼女が歌い出す。
私は意味も解らず彼女を見つめる。
「鞠と殿様って唄よ」
「ああ……」
言いながら、自分はただの手鞠唄としか憶えてなかったことを思い知らされた。思い返せば、お母さんが鞠つきを教えてくれて、唄と拍子を教えてくれて……。あとは、どうだったか。
ふと見ると、部屋の様子は彼女と初めて出会った時と同じようだった。長机に、壁際の書棚にはここからでは分からないが本が並んでいる。以前に見たような空っぽの部屋ではない。では、あの時に見たものはやはり気のせいだったのだろうか。
「こ……こんにちは」
とりあえず、当たり障りのない挨拶をする。
彼女は私の方に、ちらりと視線を投げかけただけだった。
「今日も、お留守番?」
「そうよ」
少し間をおいて、こともなげに彼女は返事を返す。
「昨日は、いなかったよね」
「そう?」
「そうって……」
「気がつかなかっただけじゃない?」
「そう、なの、かな……」
私ってば、どうしてこんなに変に固まっているんだろう――
「えと……、座ってもいい?」
「どうぞ」
相も変わらず気のない口調だ。それが却って気にかかってしまう。
私は教室のものとは違う、スチールパイプの椅子を引いて掛けた。
彼女はまた、窓の方を向いている。
「ずっと、いなかったよね?」
私はもう一度訊く。「長いこと、鍵がかかってた」
「鍵は、どちらからでもかけられるわ」
間延びした時間。私の問いも彼女の返答も、いくばくかの間隔をおいて交わされる。
「あなたは、誰かに頼まれて、お留守番をしているの?」
「べつに……」
「べつにって……」
「理由がなきゃ、いけない?」
「そうじゃないけど……」
「退屈だからよ」
聞き取れるかどうかというギリギリの低い声で、彼女は言った。
退屈だから留守番をしていると言うが、普通は逆ではないのかと私は思った。留守番をさせられて退屈しているというのなら分かるのだが。
「一人で、寂しくないの?」
「べつに……」
張り詰めたような感じは全くなかった。むしろ脱力を誘うような甘やかな気が満ちているように感じられた。だからこそ、私は椅子に掛けたままその部屋にいられたのだ。
「ねえ」
長い沈黙の後、彼女がぽつりと言った。「問いと解は必ず対でなければいけないのかしら」
「……」
「一+一は二」
私は、彼女が何を言いたいのかさっぱり読めなかった。
「でも、二進法では二ではなく一〇」
「えーっと……」
「問いと解は、必ずしも対でなければならないといういわれはないってことよ」
彼女は私に向き直って言った。
「うん……」
とりあえず、私は頷く。
「あなたや私が学校で習うのは、解ありきの問いでしかない。でも、解のない問いもあるでしょ?」
「うん……と」
私は考える。「未解決の謎、とか?」
彼女が笑う。
「何が可笑しいのよ」
「ごめんなさい。確かに、謎に違いないって思ったものだから」
「それで、何が言いたいの?」
「ええ。解のない問い、問いのための問い」
「問いのための問い?」
解のない問いは、さっきも自分で言った謎に相当するものだろう。だが、問いのための問いって、何――?
「解らなければ、いいわ」
彼女が言う。「でも私は、あなたにはその意味が解っているはずだって分かっている」
「あなたは……」
ふふふと彼女が笑う。
「いい夕焼けね」
ふと見ると、西の空より東の空の方が朱い。
「雲が夕焼けを映しているの。夕焼けなのに、東の方が明るく見えるのって不思議よね」
窓辺に寄ると、雲の加減でか西よりも東の方が赤く燃えて見えた。こんな夕焼けは初めて見た気がする。いや、以前にも見たことがあるのかも知れないが、さして気にも留めなかっただけなのかも知れない。
夕焼け空は幾度となく見てきた私だけど、その日の夕空は初めて見るもののように新鮮だった。
夕暮れに西の空が赤く燃える。その必然が夕暮れに対する解であるとするならば、東の空を染めるのを何と表すればいいのか。私は彼女の言葉の意味を、上手くは表せないにしても理解できそうな気がした。
「あなた、吉井さんって言ったっけ?」
「ええ、憶えていてくれたの?」
「ん、まあ」
「珍しいこと」
「珍しい?」
「彩夏さん、こっちに来ない?」
彼女は、自分が掛けている席の真向かいの椅子を勧めた。
「いいの?」
何となく気が引けるような感じがしたので、私は訊く。
「あなたさえよければ」
「うん」
私はスチールの椅子を立って、教室にある普通の机を挟んだ彼女の真向かいの椅子を引いた。
「変な人って思ってるでしょ?」
図星を突かれて、私は返答に困る。
「いいのよ。普通って言われるより、変って言われる方がいい」
「うん」
それは何となく理解できた。普通はあくまでも普通であって、それ以上でも以下でもない。その他多数と同じことなのだ。だからこそ、変人扱いされてもヌシと呼ばれても私は文芸部の部室に留まっているのだから。
「ねえ吉井さん」
「なに? どうかした?」
「吉井さんはどうして、お留守番なんかしてるの?」
「べつに」
「べつにって、休部中のクラブなんて他にもあるでしょう? どうして古典部なの? 誰かに頼まれたの?」
「誰にも、頼まれやしないわ」
ふっと、彼女が笑みを漏らす。「強いて言えば、ここだから」
「何よそれ。意味分かんないよ」
「それでいいじゃない」
「どういうことよ」
「何もかも分かったつもりでいるよりも、分からないって正直に言えることがよ」
「うーん、深いねえ」
真紀理が腕を組む。
「あんた、ちゃんとわかって言ってる?」
「いや、分からないから、そう言うしかないじゃない」
「そうね。分からない。分からないってことを解る」
「解った気になるのは簡単だもんね」
「真紀理ってば」
我が子ながら、いや我が子であればこそ、そういうことに思い至ってくれたことに若干の喜びを感じた。