プルースト効果
目が覚めると、俺はベッドに寝かされていた。
鼻から口は呼吸器に覆われ、人工呼吸器が無理やり俺の肺に酸素を送り込んでいる。
腕には点滴の針が刺さり、そこからチューブが伸びている。
まだ目がかすんで何もかもが白っぽく見えた。
「お父さん!!」
声がした。娘の澪の声だった。
「気がついたのね。もう大丈夫よ。」
「澪か、心配かけたな。」
自分でも情けなくなるような、か細い声だった。それに、口が呼吸器のマスクに覆われているため、くぐもった声になっていて、きっと聞きづらいだろう。
「つまらないミスで、危うく命を落とすところだったよ・・・」
「お父さん、あわてん坊なんだから・・・たまたま部活が中止になって早く帰って来たから・・・」
澪が俺に覆いかぶさってきた。泣いているようだった。そのとき、綾香の香りがした。
「綾香は?」
俺は澪に尋ねた。
「お母さんは5年も前に死んだじゃない。なに言ってるの。」
「この香りは・・・澪の香りか・・・」
俺はその瞬間にすべてを悟った。
あのとき、俺を助けてくれたのは、綾香ではなくて澪だった。
おそらく、シャンプーやコンディショナーや保湿クリームなどを、たまたま綾香と同じものを澪が使っているのだろう。それで、澪と綾香の香りがそっくりなんだ。今まで気が付かなかった。
それに、華奢だった綾香に俺の体を引っ張るのは難しいだろうが、バスケットボールで日頃鍛えている澪だったら、可能なことだろう。
「澪・・・」
「なに?」
「お前の香り、死んだお母さんと同じだよ。」
俺がそう言うと、澪は顔を上げてにっこりと笑った。
「部活が中止になったのか。」
「コーチの親戚に不幸があって、それで急に練習が中止になったんだ。早く帰れるんだからお茶して行こうってみんなに誘われたんだけど、私は何か胸騒ぎがして、すぐに帰って来たんだ。」
澪がまだ目に涙を溜めたまま、そう言って微笑んだ。
「そうか、澪は命の恩人だな。」
俺は澪の顔を見ながら、そう言った。
「澪が俺を風呂場から引っ張り出してくれなければ、今頃俺は死体安置所で寝ていただろう・・・」
澪が訝し気な表情で俺を見つめた。
「お父さん、変だよ、大丈夫? 私が帰って来たとき、お父さんはお風呂場の入り口で倒れていたんだよ。お父さん、自力で這い出したんじゃないの?」
俺は澪の言葉にとまどった。塩素ガスの影響で脳に損傷を負ったのか、あるいは記憶の混乱だろうか。
心配そうに俺を見つめる澪のベリーショートの髪に、窓からの光が当たって丸い光の環を映し出している。キラキラと輝くその環は「天使の環」とも呼ばれているそうだが、俺には、本物の天使の環のように見えた。その澪の顔に、死んだ妻の顔が重なって見える。
そして、俺は思った。
あのとき、俺の肩に垂れかかった長い髪は・・・・?
- 完 -
作品名:プルースト効果 作家名:sirius2014