夢見る蛹
【著】山田直人
☆男が床に倒れるように横たわっている。目を覚ますと、欠伸を一つ。大きく伸び。
☆近くに置いてあるカップを見る。床に座り直す。
部活帰りによく通った喫茶店。この店は疲れた身体をリラックスさせるにはとても良い。寝ていたって、誰も起こしに来ない。
…はず。しかし。あれ。いつもと…。
目を覚ますと目の前には冷たいココア。ラテアートで電話番号。
…ああ、これは、ひと月も前の話だ。
咥え煙草の女性(ヒト)だった。
「となりいいかなぁ」
『はあ』
「よく来んだ?」
『ナンパすか?』
「自意識過剰」
『…まあ』
「ごめんごめん。中学生?」
『高校っす』
「へぇ、かわいいね」
『お仕事の人すか?』
「お仕事のって?」
『あ、いえ』
「いい、いい」
『この時間、お忙しくないのかなって』
「お忙しいよー」
『はあ』
「ずっと高校生がいいよー」
『あの…』
「なに?」
『なんすか?』
「…」
『…』
「ごっめん、たしかにそうよね」
『いえ、いいすけど』
「君である必要はないんだー」
『はあ』
「誰かに甘えたいんだ」
『失恋すか?』
「…言うねえ」
『いや』
「ん。そうなの。ずっと追いかけてきたのだけど、逃げられちゃった」
『…』
「…」
『…おれ、ガキすけど』
「…」
『あの…』
「…なくなってる」
『あ』
「なに?」
『ココア』
「あ」
『え』
「ほんとだ」
『…ひでえっす』
「どっち?」
『アイスっすけど』
「マスター、アイスココア」
大人の女性に見えた。
それから、部活帰りには、この喫茶店へと足を運ぶようになった。
会えることもあれば、会えないこともあった。
ガキだと思われたくなくて、背伸びして、ココアじゃなくて、珈琲を飲んだ。
そうして、また、二人でカウンターに座り、いろんな話をした。
「部活って何をしてるの?」
『柔道っす』
「ああ、そうなんだ」
『見えないすか?』
「ううん、納得」
『強くはねえすけど』
「それも納得」
『でも、くやしいす』
「…」
『そんなとき来るんす』
「…私じゃ勝てないなぁ」
『さすがにそれは』
「転んだら勝ちとかでしょ?」
『背中から落ちたら一本す』
「お腹は?」
『転ばしたら寝技すね』
「寝技ねぇ」
『うす』
「それだったら、私の勝ちかな?」
『…』
「…最近、よく会うね」
端的に言って、自分は彼女が好きだった。
「蛹って知ってる?」
『固いやつっす』
「そう、固いの」
『知ってるっすよ』
「あれの中身ってね、液状なんだって」
『…』
「ドロドロなの」
『へえ』
「幼虫のときはひたすらに摂食するだけの形にあって、複雑異形な成虫に向けて、固く動かぬ鋳型と成るの。中身をドロドロに溶解させてさ」
『面白いんすね、虫』
「そう、面白いの、虫」
『どんな気分なんすかね』
「きっと夢を見てるんだよ」
『ドロドロになりながら?』
「夢を見るって、そういうこと」
『…ふーん』
彼女にとって自分は、ただ其処に在る一介の夢見る蛹だったんだろう。
『…どうしたんすか?』
「んー?」
『うれしそうす』
「やだ、わかっちゃうか」
『そりゃ、まあ』
「つかまえたんだー」
『なにをすか?』
「追いかけてたもの」
『…へぇ』
「この前フラれたときは、縁無いと思ってたけど、どうしてなかなか」
『よかったっすね』
「見せたげる」
『え?』
「特別だぞ」
『…うす』
「ほら…」
『…これ』
「女狐」
『めぎつね』
「直筆の原稿。十余年をかけて構想執筆をした豊見山とみおの見果てぬ夢。その地図」
『…ゆめ』
「そう」
『…』
「そしてこれはこれからも、この世界に溺れる誰しもの、見果てぬ夢で在り続けるの」
『これは…』
「…」
『…あゝ』
「どう、すごいでしょう?」
『…』
「あれ、すごくない?」
『うす』
「読んだことあるでしょう?」
『いや』
「え、読んだことない?」
『ねぇす』
「えー、うっそ。人生損してるよ」
『してねぇっす』
「いや、してるよ」
『マスター、アイスコーヒー』
「わかった」
『なんすか』
「読んだげる」
『え、いいすよ』
「えー、読んだげるよー」
『いや、じゃあ、自分で読むっす』
「やぶくでしょ」
『やぶかねぇっす』
「ほら、ココアでも飲んでくつろぎなんし」
『いや、コーヒー頼んだすけど』
「無理してさ」
『してねっす』
「…」
『…』
「…じゃあ、読むね」
『………………あゝ』
☆男は、ゆっくりと、ゆっくりと床に横たわる。眠る。夢を見る。
☆夢から覚めると、欠伸を一つ。大きく伸び。近くに置いてあるカップを見る。
この番号は、見果てぬ夢。
原稿を眺める彼女の横顔。
喫茶店から足が遠のいた。
それから一週間後、星が降るとテレビが言った。
なにか、どうしようもないのだそうだ。
ひとは、真面目じゃない。真面目なひとの方が可笑しい。
世界の総てが自由を求めると、いとも簡単に自由が無くなった。
電話がつながらない。
☆男は、床に横たわる。
「固く動かぬ鋳型と成るの。中身をドロドロに溶解させてさ」
「きっと夢を見てるんだよ」
「夢を見るって、そういうこと」
☆眠る。夢を見る。
終わり