年末年始
1:出立の決意
「実家、帰るか」
12月30日の朝、布団の中で目覚めた河西 克樹(かわにし かつき)は、ふいにそう思い立った。
今の会社に入社して3年。名実共に……いや実力の方は少々怪しいが、名目的には小さい企業の中堅社員として、システム開発の仕事に就いている克樹は、兎にも角にも久々に得ることのできた、比較的長い年末年始休みの初日にそんな決意をしたのである。
思えば就職してから3年、ろくにまとまった休みなど取ってはいなかった。普段の土日、祝日はもちろんのこと、GW、夏休み、年末年始……休暇など殆んど取ることもなく、会社でPCと取っ組み合う生活を続けてきたのだ。そして、そんな過酷な労働をしている克樹自身も、その暮らしを当然のこととして受け止め、乗り越えてきたのである。世間では厳しい勤務を強要する会社を、『ブラック企業』などと呼ぶ御仁もいるようだが、克樹には今のところ自分が仕事の上で必要とされている、という喜びのほうがより勝っているように思えていた。
しかし、なぜ急に実家に帰ろうなどと思い立ったのだろう。それは克樹自身にもいまいちよくわからなかった。強いてあげれば、前々から克樹の心の奥底にわだかまっていた帰郷という心理が、今ここで瞬間的に表面化した、という感覚が一番近しいだろうか。だが、どうせ休みが終わってしまえば、またいつもの多忙な生活に戻ってしまうのだ。それまで無駄なことをせず、このアパートで英気を養っていた方が良いに決まっている。心中の怠惰な感情が、すかさずこんな否定的な見解を発表してくる。しかし、この日の克樹は少しだけ普段とは違っていた。別に何があっても親兄弟の顔を見なければならない訳ではない。会うべき約束をしている友人も特にいない。どうしても実家から取ってこなければならない物だってない。それでもこの休みを利用して実家の敷居を跨ぐのだ。克樹は脳内でそう心に固く誓っていたのである。
最近ぽっこりしてきたお腹を揺らしつつ布団を出て、まずどうすれば良いかを克樹は考えた。いくら実家とはいえ、連絡もなく急に帰ってこられては困るだろう、まず一報を入れなければ。そう考え、傍らのスマホを掴む。時刻は7時32分。早朝とはいえ、母なら恐らく起きているだろう。アドレス帳から『家』の文字をタップし、スマホを耳元に引き寄せる。途端『ツー、ツー、ツー』という無味乾燥な音。頭の上に疑問符を浮かばせながらしばし考え込んで、ようやく思い出す。家の電話は解約したと、以前母から連絡があったのだ。なんでも、家の電話への迷惑な営業電話が相次いでいて困っていたらしく、両親がスマホを使いこなせるようになったのを機に、思い切って解約したので連絡をしないように言われていたのだ。
それならば、もうこの番号は必要ないだろう、そう思いアドレス帳から『家』の項目を削除する。普段ずぼらな克樹は、だいたいこういうことを後回しにして同じ失敗をやらかすのだが、今日の彼はこういうところを見ても、いつもよりやる気がみなぎっていた。
改めて『母』の文字をタップする。今度こそいつものコール音が鳴り響く。3コールもしない内に、聞き慣れた声が耳に届いてきた。
「克樹か? どした?」
母はどうやら朝食を作っている最中だったようで、塩じゃけか何かを焼くじゅうじゅうという音が小さく漏れ聞こえてくる。同時にBGM代わりに流しているであろうテレビの音も、遠くの方で聞こえていた。
克樹はスマホの向こうの母に、今日から数日帰省する旨を手短に伝える。朝食の準備をしているようだし、積もる話は直接会ってからのほうが良いだろう、という気遣いで簡潔に伝えたのだが、母の方は息子の予想外な帰還に喜びを隠しきれないようだった。
「おー? どういう風の吹き回し?」
「こっちで、友達と約束でもしてるの?」
「明日、佳苗たちも帰って来るから」
「克樹が帰ってくるんなら、今夜はしゃぶしゃぶにでもしようか」
矢継ぎ早に質問や話題を繰り出し続ける母に、克樹はうんざりしながら、
「遅くとも、夕方くらいには着くから」
とだけ伝えて無理やり通話を切り、急いで支度を始めたのだった。