時そば~人情編~
「申し訳ございません! 実は津では伊勢うどんを商っておりました、自分で言うのもなんでございますが、まずまず繁盛いたしておりましたもので、花のお江戸で一旗揚げようなぞと要らぬ欲を出したんでございます、こちらでも伊勢うどんの店を出したんでございますが、これがとんと売れませんで、店は人手に渡り、あたしは蕎麦の屋台を担ぐようになったんでございます、伊勢うどんでしくじっておりますので江戸の方のお好み合わせようと一生懸命やってるんでございますが、なにぶん江戸の方が好まれる蕎麦は伊勢うどんとはまるで正反対でございまして」
「そうかい、そうだったのかい……伊勢うどんね、食ったことあるよ、確かに甘くて太くてやわらけぇや……でもよ、この蕎麦は挽き立て、打ち立てだな?」
「おわかりになりますか?」
「ああ、蕎麦の香りがプンプンしてるからな……ちくわも厚く切ってあるね、噛み応えがあるってやつだ、出汁も丁寧に取ってあるしな……これはこれで……ずずっ……面白ぇ食いもんだな……ずずっ……これはこれで悪かねぇぜ……ずずずずずず……ほら、その証拠に汁まで飲みほしたぜ」
「あ、ありがとうございます」
「まあ、確かに江戸の蕎麦とはだいぶ違ってるけどよ、客に美味いものを食わそうとしてるのはわかるぜ、真面目にこつこつやってりゃ商売なんて何とかなるもんだ、見てる人は見てるもんだよ、今は江戸っ子の好みにゃ合わねぇかも知れねぇけどよ、いい加減なものを食わそうってんじゃねぇんだ、もしかしたら、お前さんが作る蕎麦がいつか江戸の当たり前ぇになるかも知れねぇよ、まあ、あきねぇって言うくらいだ、くさらないで真面目に地道にやるこった……おう、今度またお前さんを見かけたら必ず一杯食うことにするぜ……代はいくらだ?」
「いえ、もう商売もやめてしまおうかと思い始めていたところでございます、とは言え伊勢に帰ろうにも路銀もままならず……あなた様にそう言っていただいたおかげで何とかやっていけそうな気がしてまいりました……お題の方は結構でございます、せめてものお礼と言うことで」
「そうは行かねぇよ、ちゃんとしたものを食わせたんだ、ちゃんと代は取ってくんな、銭は細けぇんだ、手ぇだしてくんな……ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なな、はち……今なんどきだい?」
「はい、よっつで」
「いつ、むう、なな、はち、ここのつ、とお、十一、十二、十三、十四、十五、十六、これで丁度だ、あばよっ」
「あっ、お客さん、お客さん、これでは頂き過ぎで」
「良いってことよ、銭は今度喰う時まで預けとかぁ、必ずまた呼び止めるぜ」
「ありがとうございます」
「大体今頃この辺りを流してるのかい?」
「はい、左様で」
「次からはもう半時ほど遅く来てもらえねぇかな?」
「はぁ、それはどういうことでございますかな?」
「こん次は間違いなくここのつに呼び止めるからよ」
この蕎麦屋、この後一層商いに精を出しまして、以前の店を買い戻して江戸前の蕎麦と伊勢うどんの両方を商うようにしたところ、男衆には蕎麦、おかみさんや子供には伊勢うどんが受けまして、連れ立って行ってもどっちも食える店と言うことで大層繁盛したと申します……時そば・人情編の一席でございました、お後がよろしいようで。