白昼夢
壁から目を逸らすと、部屋の真ん中に人が居ることに気付いた。白いワンピースのような服を着た、少女だと思った。そちらのほうへ歩いていく。壁から離れるのが少しだけ不安に感じた。でも歩きだしてみると大したことはなかった。足音がしない。ただ、すすり泣くような声が僕の行く先から聞こえてくる。他に何も無いからか、僕は真っ直ぐその少女のところへ歩くことが出来た。見向きするものもない。
部屋には明かりがなかった。天井にも何も無い。電灯もない。照らす物自体が無いからだろうか、と率直に思った。けれど部屋は見渡せるのだ。壁や床や天井自体が光っているのだろうか。いろいろ考えたけれど、結局はどれもどうでもよく、部屋の中でひとつだけ焦点を持つもののところに無心で向かった。少女は特によく見えた。
近くまで来ると、それが本当に年端のいかない少女であることが分かる。小さい体を丸めて泣いている。こちらに背を向けて、うなだれるように座っている。髪の毛に隠れて顔は見えない。流れているであろう涙を手の甲ですくいながら、肩を震わせている。長い髪が白い床に垂れていた。髪の毛が何色なのか分からない。白しか感じられないこの空間の中で、彼女の髪の毛は白色ではなかった。けれど、黒でも茶でも、赤や青でもなかった。でも何色なのか分からない。彼女の髪の毛には色が無かった。肌は白く、服も白い。放り出した足の裏も真っ白だった。ただ、しゃくりあげながら泣いていた。
「どうした」 尋ねると、震えていた肩がはっと動きを止めた。手を微かに動かしたあと、またさっきと同じように泣き始めた。返答を待つ時間は苦にならず、彼女は小さな声で答えた。「探してるの」 まるで頭の中に文字が映し出されたようだった。声が聞こえないのに彼女が何を言ったのか理解できた。それは文字を読んでいるような感覚だった。「何を」 自分の口が動いている。自分の声はしっかりと聞こえるのだ。この広い部屋に反響することもなく、ただ彼女を問い詰めるように僕の声は空気を震わせる。そんなものがあるのかどうか、知らないけれど。「大事なもの」 彼女は肩を揺らしながら泣いているのに、その言葉は少しも震えていなかった。はっきりと頭を過っていく。彼女は僕を見ることもなく、絶望したかのように首を垂らしてその白い床と色の無い髪の毛だけを視界に入れながら、僕と、会話と呼ぶのもおぞましいものを続けていた。「ないの」 映像化されていく。言葉の意味を突き詰めるのは、この空間をだまくらかすのと同じくらい滑稽だ。急に僕は、とても憂鬱で億劫になってきた。「ずっと探してるのに」 今にも喚き始めるんじゃないかと思った。けれど彼女はずっと同じように静かに泣いていた。この部屋で、何を探すというんだ。こんな白いだけの部屋なら、髪の毛一本でも見つけるのは容易いだろう。事実、この部屋には何も無いのだ。何かを隠すような場所も無いし、失くすようなものも無い。失くしようもない。何も無いのだから。
「見つかるはずがない」 僕の口は動いていた。すべての言葉をぶっちぎって、映画や小説の大事な部分だけをかいつまんでしまったような気分だった。彼女はぴたりと泣くのをやめた。体を微動だにせず、何も無いところを見つめたまま、僕の言葉を待っているかのようだった。けれど、僕はとても嫌な気分がしていた。ひどい罪悪感のようなものを感じていた。すぐにその場から消えたい気持ちになったのに、そんなこと出来ないことを理解していたから少しも動けなかった。彼女は素早く顔をあげた。僕に背を向けたまま、部屋の反対側を見ている?よく分からなかった。これ以上はいけない。誰かが警鐘を鳴らした。シンバルのような、キンキンと耳に響く楽器が乱暴に叩かれるような、そんな音がし始めた。耳を塞ぎたくなるような酷いものだ。しかし、彼女が顔をあげてからというもの、今度は僕が微動だに出来なくなっていた。彼女の後頭部を見つめたまま、視線も逸らせず待っている。いつこちらを向くのだと。それは期待などではなかった。
僕は最初から、彼女の顔を覗き込んではいけないと知っていた。彼女が僕の眼を見ることがないようにと願っていた。色の無い髪が揺れる。音が酷くなってきた。カンカンカンと響くそれが大音量になっていく。彼女はゆっくりとこちらを向き始めていた。鼻先が見え始める。頭が痛くなるほどの音がする。見てはいけない。分かっているのに、少しも視線を逸らせなかった。まるでコマ送りのスローモーションを見ているような気分だった。彼女が長い時間をかけて少しずつこちらを向き始める。睫毛が少しずつ見えて行く。頭が痛くて涙が流れた。回線だ。回線を切断しろ。顎先が見え始める。はやく切断するんだ。見てはいけない。
頬が透き通るような白さだった。
それから、僕は硝子のような線の細いものが割れる音を聞いた。彼女が今までと打って変わって恐ろしいほどに素早く振り向いた気がした。ぐるん、と風を切るように回った、その首。その顔を、目の色を、僕は見なかった。気付いてしまったのだ。頭を劈くこの音は、遮断機の警報だ。
「あなたがつくった」 最後の映像はそう綴った。